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 *
 
 炎上する離宮の中、ぽっかりと、全てを燃やし尽くした空間がひとつ、開けている。炭となった梁が空を横切り、周囲から火の粉と灰が雨のように降り注ぐ。
 そこに倒れ伏す者と、それを眺める人影――
「素晴らしい」
 悦に入った声音で、ヒュブラは賞賛の言葉を吐いた。憧憬と興奮と感動、そして相反する侮蔑と妬心がない交ぜになった、奇妙な声である。制御できなくなった感情が全て、表に出てしまったためだろう。
 きつく眉根を寄せ、ただ歯噛みするアッシュの体を無造作に蹴り、ヒュブラは蔑んだ視線を落とす。
「見ろ。――あの時以上の光景じゃないか。もう少しで、あれに会える」
 アッシュの指が、力なく土を掻く。その指を踏みつけ、ヒュブラは苦痛に喘ぐ男の顔を、楽しそうに見つめ遣った。
「……ざけろ」
「おや、まだ喋る余裕があるのか」
 途端、笑みを消し、ヒュブラは足を振り上げる。だが途中で、思い改めたように、静かに元の位置へと足を戻した。
「いかんな。お前を傷つけては、また遅くなってしまう」
 嘆かわしげに首を横に振り、冷たい目でアッシュを見下ろす。
「――しかし、何故、お前なんだろうな」
「……」
「お前のような者にその力があって、何故私にはないのだろうな?」
 いや、と呟く。
「ゼフィル式魔法を持ってしてでも、お前のような化け物は、作り上げることが出来なかったよ。それだけの為に、奪い、騙し、見捨て、殺してきたのに、な」
 見上げ、見回し、真紅の中に消えようとする宮を好ましげに眺めやる。むせかえるような熱気にも、干涸らびるほどの暑さにも、彼は頓着していないようだった。
 アッシュは渾身の力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「貴様も、死ぬぞ……」
「願ったりだ」
 恍惚とした表情は、何を捉えているのか。
「あの美しいものに殺されるなら、本望だ。お前も、そう思うだろう」
「狂って、やがる」
「お前の殿下は、同意してくれそうだがね」
「違う……、あいつは、人を選ぶ」
 苦痛の中にあって尚も、勁い力を持つその双眸を、ヒュブラは忌々しげに睨み遣った。アッシュはけして、視線を逸らさない。命乞いもしなければ憐れみを乞うこともしない、扱いにくい男である。
 憎い。だが、今殺すことは出来ない。
 遠くで、轟と、火炎の咆吼が聞こえる。気を落ち着けようと、耳を澄ましていたヒュブラは、ふと、馴染み深い音を拾った。炎に焼け落ち、遮るものが無くなった上に、風が強く吹いている為だろう。炎と煙しか見えない中で、その音は、聞き違えようもなかった。
 確信を持ちつつ、耳の後ろに手を当てる。そうして、更に続いたその音に、ヒュブラは口の端を吊り上げた。
「――ククク」
 加減をしつつ頭を踏みつけ、ヒュブラは嗤う。
「観客が到着のようだ」
「!」
「タラントの騎士どもかな。それとも、殿下かもしれんな」
 アッシュの顔が歪む。それを満足げに眺め、ヒュブラは彼の肩を軽く蹴り上げた。堪らずに、その勢いのままにアッシュは回転し、土を噛む。
「もうすぐだ。私の願いは叶う。――お前はその後に、あの時のように嘆くがいい」
 哄笑。
 ――全てが炎に呑み込まれるまで、あと、僅か。

 *

 火勢はいよいよ強く、離宮を目前にして、フェルハーン達は馬を下りざるを得なかった。尻を叩けば、怯えた軍馬は一目散に逃げ去っていく。
「思ったよりも、火の回りが早いな。……ギルフォード、魔法は、使えるか?」
「愚問、と言いたいところですが、私と殿下だけで精一杯です。他の者にかける余裕はありません」
 ギルフォードが言っているのは、炎を避けるための結界のことである。強い衝撃を防ぐといった類のものではないため、魔力の消費は少ないが、的確に制御するにはかなりの腕が必要となる。魔力を消耗して集中力に欠けるギルフォードには、大人数を守護する自信がなかった。
「そうか。なら、降雨魔法はどの程度効きそうかわかるかい?」
「あまり、期待はできませんね」
 言い切り、ギルフォードは眉根を寄せた。
「この炎、もの凄い魔力を感じます。普通に水を掛けただけでは、消えないでしょう。……ヒュブラの魔法でしょうか」
「違う」
 硬い表情のまま、フェルハーンは燃えさかる離宮を見つめた。
「私は、行かなくてはならない。ギルフォード、頼む」
「私も行きます」
「駄目だ。これは、私が付けなくてはならない決着なんだ。――私が、責任を持って、殺す」
 静かに言い、フェルハーンはギルフォードに目を向ける。訝しげに顰められた眉、沈黙。そしてしばし後、ギルフォードは深々とため息を吐いた。
「お断りします」
「ギルフォード!」
「何もかも、ご自分の思い通りになると思われては堪りません。私も行きます。それが、条件です」
「そんな事言って、――じゃあ、ここを誰が守るんだ!」
 珍しく声を荒げたフェルハーンの横を、通り過ぎる影。
「――ディアナ?」
 応えず、ディアナは更に先を進む。そうしておもむろに立ち止まると、高々と魔法式を詠唱した。
 一瞬の後、突如落ちてきた雨粒に後方の騎士達は驚いた顔を上げる。スコールにも似た、局所的な集中豪雨。長くは続かない。だが、勢いを持って広がっていた炎の手は、確実に後退した。いずれまた、火勢を盛り返してくることは必至だが、少しの時間稼ぎにはなるだろう。
 騎士達が歓声を上げる中、わずかな間に全身を濡らした男達を悠然と振り返り、ディアナは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「頑固者も、数が揃えばただの莫迦ですな」
「ディアナ」
「義兄上は、もう少し、人を信用された方が良いでしょう」
 困惑するフェルハーンに近づき、ディアナは手を振り上げた。あ、と思う間もない。全く躊躇いのない掌は、直後にフェルハーンの頬で高い音を奏でた。
「……拳ではなく、平手で人を打つ日が来るなど、思ってもいませんでしたよ」
「君ね、人を叩いておいて、それはないんじゃないか?」
「避けぬ義兄上が、悪い」
 言い、ディアナは真顔でフェルハーンを睨む。
「義兄上の部下になる者は、哀れですな」
「何?」
「わたくしは、アリアを信用していますよ」
「アリア? ――あの子が……まさか、中に?」
 頷き、ディアナは自分の手を見つめた。
「そんな、――それなら、……いや、しかし、あの子は」
 言いかけ、ギルフォードの存在に気付き、フェルハーンは言葉を止める。その先を正確に読み取ったか、ディアナは辛そうに、眉間に皺を寄せ、眉尻を下げた。
 赤く、痺れる掌を握りしめ、そうして、彼女は顔を上げる。
「わたくしは、あの子を助けたい」
「……」
「ですが、あの子はあの子で、生きるために頑張っていると、わたくしは信じております。わたくしがそう命じたからではなく、あの子自身がその道を選んだと」
 言葉を詰まらせ、フェルハーンはディアナを見つめた。
「あの子は自分の罪深さも、人間の汚いところも充分判っている。苦しいことも、辛いことも、忘れたいほどの過ちも、全部覚えて受け止めている。その上で貪欲に、強く、生きたいと願う。生きる道を選び、自分の足で立ち上がり、進む。その強さを、わたくしは何より美しいと思う」
「……」
「だが、そうして生きることが、辛いこともありましょう。だからわたくしは、いつでもアリアを受け入れるために――アリアを迎えるために、ここに来たのですよ」
 フェルハーンは、唇を引き結んだ。ディアナの言いたいことが判ってくるにつれ、胸の辺りにどうしようもない痛みを覚える。だがこれは、甘んじて受けなければいけないことのだろう。
「それを、義兄上は何ですか。まるで、部下には何の心もないようにおっしゃる」
 憤懣やるかたなし、そういった表情で、ディアナはフェルハーンを再び睨みつけた。
「ご自分が無理矢理生きることを強要したからだと、それで生きているのだから、どうしようもなくなった今、今度は殺して始末をつけようと、どこまで、人の命を好きにされるおつもりか」
「――いつから、気付いていたんだ?」
「何について、ですかな」
「全部。私は、私が殺しに行くのはアッシュだなんて、一言も言っていない」
 これに驚いたのは、話を横で聞いていたギルフォードだっただろう。それまで、フェルハーンの口からは何の話題にも上らなかった男の名前が、急に浮上したのだ。それに、物騒な付加要素も加わっている。
 ディアナは、ただ苦笑した。
「義兄上が、彼とアリアを引き合わせようとされるからですよ。何かあると思っておりましたところに、この事態。ゼフィル式魔法の存在と、ヒュブラ、そして先ほどの『殺す』という発言。義兄上や彼の経歴と合わせて少し考えれば、自ずと答えは見つかりましょう」
「私が、ヒュブラを殺して決着を付けるとは思わなかった?」
「この炎は、ヒュブラの魔法ではないと、断じておいて、ですか? 炎を発生させている者であれば致し方ありませぬが、そうでないなら、義兄上なら、ヒュブラは出来れば生かして捕らえたいはず。故に、炎をなんとかするために止める必要のある者は別の者だと、そう思ったのですよ」
 言い切り、ディアナは挑戦的にフェルハーンを見遣る。
「――参った」
 本日二度目の言葉を口にして、フェルハーンはゆるく首を振った。


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