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「この世のものとは思えないほど美しく、力に満ちあふれ、一瞬で人をゴミのように消し去った、孤高の存在だ」
 何を言うのかと、アリアは眉根を寄せる。
「天を覆い尽くす朱色の羽根、降り注ぐ黄金の光粒、揺れて立ちのぼる、真紅の炎。――あの瞬間に死んでしまいたいと思えるほど、あれは美しすぎた」
「まさか――、まさか、その為に!?」
 悲鳴に近い声を、アリアは上げる。だがヒュブラは、恍惚の残滓を引きずった目で、炎渦巻く空を見上げた。
「もう一度、あれを目にするために、私は力を磨いたよ。だが、何をどう努力しても、及ばなかった」
 アッシュの脇腹を蹴り、歪めた顔で彼を見下ろす。
「ゼフィル式魔法を持って、こいつと一緒の人間を作り上げようとしたが、それも失敗した。出来たのはなり損ないの聖眼で、それでようやく、私は目が醒めたのだよ。なんてことはない、もう一度、こいつに呼ばせればいいのだとね」
「――狂ってる」
「お前も、あれを見れば判るだろうさ」
 判りたくもない。アリアは拳を震わせた。
 そんな、玩具を欲しがる子供のような理由のために、あれほどの騒ぎを起こし、多くの人を殺したというのか。
 そして今も尚、アッシュを苛んでいる。
「足を、どけなさい!」
 怒りに、アリアは声を張り上げた。同時に、予め魔法鉱石に刻んでおいた魔法を解き放つ。
「!?」
 それは、たいした威力ではなかったが、ヒュブラを驚かせるには充分だった。魔法式の詠唱もなしに、いきなり魔法が来るとは思わなかったのだろう。
 咄嗟にアッシュから脚を離し、たたらを踏んだところにもう一つ、高圧縮の風圧が襲いかかる。普通なら耐えられただろうそれも、虚を突かれたヒュブラには、堪えようがなかった。更に数メートル、離れた位置まで後退る。
 その間を縫って、アリアは結界を作り上げた。
「何を……」
 ヒュブラにとっては、小細工に過ぎないだろう。彼が強力な魔力を放てば、ひと突きで崩れ去るような脆い結界。
 呆れたようにヒュブラは肩を竦めて頭振る。だが、アリアが躊躇いもなく足を進めているのを見るにあたり、僅かに驚いたようだった。片方の眉を上げ、アリアをじっと見つめ遣る。
 しばしヒュブラは、ふたりを見比べ、やがて皮肉っぽい笑みを浮かべた。殊更ゆっくりと、結界を壊しもせずにわざと距離を取ったのは、この状況で小娘に何が出来るのかと、高をくくっているためだろう。
 だが、アリアには彼の思惑など、どうでも良かった。むしろ、場所を引いてくれて助かったとすら思っている。
 足を退けられて尚、アッシュは身を起こす気力すらもないようだった。
「……っ、アリア……」
 弱い声が、土の上を這う。床板は既に焼け、炭となり灰となり、今アッシュは、熱を孕んだ土の上に横たわっている。
「何故、戻って、来た……」
 非難ではなく、どこか辛そうに、アッシュは目を固く閉じる。その様子に、湧き起こっていた怒りを忘れて、アリアは彼を静かに見下ろした。
「何故、行かなかった……」
 嘆き、そうして、来るなと、彼は掠れた声で懇願する。強い人だ、とアリアは思った。
 理不尽に責められ、傷つけられ、それでも尚、誰かのことを気に掛けることが出来る。莫迦だ、とマリクは言った。そう言われても仕方のないほどに、アッシュは、根本のところで優しい人だった。
 今なお、逃げろと小さな声がする。
 その微かな声を耳に、どこか遠い目で、アリアは彼を見つめ遣った。
 焼け落ちる、美しかった木々。天を突くほどの渦を巻く炎。――倒れ伏す人と、それに害為す者。
 風に煽られ、飛んでくる灰は、まるで雪のようで。
 ああ、とアリアは胸に痛みを覚えた。明らかに違う状況で、何故こんなにも、見える光景は酷似しているのだろう。
 フラッシュバック。
(……大丈夫、力の制御はできる。兄さんみたいに死なせることはない)
 今にも死にそうだった兄、しかし止めを刺したのは、時間ではなくアリア自身だった。誰よりも、死んで欲しくなかった大切な人を、アリアは自分の手で殺した。それが、そうするより他はなく、放っておいても死んでしまっただろう状況でも。
 ――その力で、人を殺めちゃいけない。二度と、こっちに戻って来れなくなる。
 だが実際には、この呪わしい力で魔力を極限まで吸い取った為に、兄は死んだ。アリアが思い余り、無制御に力を振るいかけたのを、身を挺して止めた彼だけが、死んだのだ。
 ――生きて、アリア。
(生きていて、欲しかった)
 ゆっくりと歩を進め、アリアはアッシュの前に、立ちつくした。荒い息を吐く男と、苦しげに呻いていた兄の姿が、かぶる。
 ああ、そうか、とアリアは目を細めた。
(私は、何度同じ場面に出くわしても、きっと同じ選択をする。生きるために、醜いくらい、足掻くんだろう)
 たとえ、人に有らざる力を使ったとしても。
(後悔しながら、それでも私は生きたいと願う)
 生きていて欲しいと、願う。
 何をする気だと、少し離れて眺めやるヒュブラを一瞥し、アリアはアッシュの側に膝を立てた。息を深く吸う。大丈夫だと、自分を落ち着ける。
 あれから少し大人になり、力を付けた。自分だけ生きるより、誰かを助けられるように。もう二度と大切な人を殺めぬように、力を制御する術を覚えたのだ。――その力の威力を知れば知るほど、人に知られることに、臆病になっていたけれど。
 知らず、最後の最後で背中を押してくれたマリクに感謝しつつ、アリアはアッシュの腕に手を置いた。アッシュは、ただ哀しげに見つめくる。
 恐ろしいほどの、鼓動。自分を気遣う彼の目が、恐怖に変わるのを見るのが辛い。
 だが、それだけのことをするのだと自嘲しながら、アリアは指先に、意識を集中させた。
 罵られてもいい。化け物と言われてもいい。
 だから、どうか、死なないで――

「!」
 
 溢れ来る、力の奔流。どこかで、何かの砕ける音がする。
 濃密な魔力が、怒濤の勢いを持って、アリアの中に流れ込んだ。今までに感じたこともないほどの、輝くほどの力に満ちたそれに、アリアは知らず、涙をこぼす。
 命だ。今アリアは、アッシュの命を奪っている。
「あんた……」
 茫然としたアッシュの声に、目を伏せる。腕に置いていた指を動かし、泥と血に汚れた大きな手を、両手で包み込む。
「ごめんなさい」
 握った手を額に当て、アリアは祈るように力を込めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。これしか方法はないんです」
 頬を伝った涙が、乾いた土を濡らす。
「私は化け物です。生きてちゃいけない存在なんです」
「……」
「それでも、生きたいんです。苦しいほど、生きたいんです! 浅ましくったっていいんです、見苦しくったっていいんです。今を生きていて、周りにいる人にも生きていて欲しいんです。後悔なら、後でします。泣きたいなら後で泣きます。でも今は、やれることを全てやらないまま、諦めたくはないんです」
 だから、
「許して――……」
 震える声。アッシュは、何も言わずにただアリアを見つめた。
 急激な力の消失。気付かぬわけがない。それでも手を振り払うことなく、黙っていてくれることが、アリアにとっては救いだった。
「――娘」
 一方で、驚愕に満ちた声が響く。
「何をした」
 アッシュの手を離し、アリアはふらりと立ち上がる。涙を拭った目に映る光景は、少しばかり様相を変えていた。
 あれほど勢いよく噴き上がっていた炎が消失し、今は風に煽られ、燃えさかるのみとなっている。渦巻いていた熱風も、ただの上昇気流へと変じていた。無論、依然として山火事の危機は去ったわけではなく、夜明け前というのに周りを見通せるほどに炎は林を侵している。ただ、炎を生み出し続けていた力だけが、嘘のように消え去っていた。
「なんということを、してくれた……」
 怒りに満ちた声で唸るヒュブラを、アリアは細めた目で見つめた。
「あと、少しだったものを……!」
 罵声と共に放たれる、風の刃。
 無意識にも似た速さで防御壁を展開し、アリアは容易くそれを弾いてみせる。
「!」
「ふざけるな!」
 叫び、思うままにアリアは魔法を立て続けに放つ。後のことは考えていない。ただ、身に満ちた怒りと哀しみと、どうしようもない切なさが彼女を突き動かした。
 放出レベル、9――。
 およそ、現時点で最高レベルの高出力が全開にされた今、太刀打ちできる者など存在しないだろう。あまりと言えばあまりの魔力の消費の膨大さ故に、通常では使うことのない、理論上だけの魔法まで繰り出して、アリアはヒュブラを攻め続けた。無論、それを可能にしているのは、アッシュから得た高濃度の魔力である。
「誰だって、追う夢はある、願うこともある!」
 押され、防戦一方のヒュブラに、アリアは怒鳴る。
「だけど、それは、意図的に誰かを苦しめて手に入れるものじゃない! 誰もが、幸せになれるわけじゃない、願いが叶うわけじゃない、だけどそれは、自分で選んだ上でのことじゃなきゃ、駄目なんだ!」
 今の周囲を取り巻く環境上、氷系の魔法は威力を半減させる。だがその分、熱を持った魔法は、恐ろしいまでの威力を伴った。
 螺旋状に渦巻いた炎の槍が、ヒュブラの防御壁を突き破り、彼の腕に直撃する。焼かれ、抉られ、一瞬で炭化した腕は千切れ、今まで他人の悲鳴を聞き続けていた耳に、自分の叫びを聞く。
「立ち止まってもいい、振り返ってもいい。失敗する、後悔もする、取り返しの付かないことだってある。仕方ないじゃない、人間だもの! 迷いながら、生きていくしかないじゃない! それでも人は、生きていくんじゃないか! それを、あんたは理不尽な、己の我が儘のためだけに踏みつけた!」


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