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 相手の悲鳴には構わずに、アリアは、竜巻を呼ぶ。崩れた柱や周辺の炎さえも巻き込んで、一気にヒュブラに叩きつけた。脆弱な体しか持たない人間であれば、ひとたまりもなかっただろう。
 アリアの目には、苦悶する彼は映っていない。
 ――知人を頼って泣いていた子供。
 人としての最期を迎えられなかった、ティエンシャの騎士。
 怯え、疲れたヴェロナ。
 弟への裏切りを呪ったエレンハーツ。
 切羽詰まったように、懇願したマリク。
 妹と師を亡くした、ギルフォードの苦悩。
 アッシュの、苦痛に満ちた、哀しげな顔。
 他にも、多くの者を絶望に突き落とした。多くの者が、苦しんだ。
「許さない……!」
 せめて、同情の余地の残る、仇討ちの類であれば、ここまでの怒りは感じなかっただろう。
「死ね!」
 振るう腕から、次々と風の刃が生み出される。
「死んで、――皆に、詫びてこい!」
 滅茶苦茶に、力任せに放つ魔法は、僅かに残っていた建物の残骸をも切り裂いていく。なんでも良かった。ただ、ヒュブラを、地に這わせることが出来るなら――
 
「駄目だ」
「……!」
 突然、後ろから、肩に回される腕。
「もういい。止めるんだ、アリア」
 高い位置から回されたそれはアリアを抱き、やがて首の後ろに僅かな重みをを加えた。
「あんたが、手を汚す必要はない。そんな価値はない。――だから、もう、止めるんだ」
 頼む、と、囁く声。
 信じられないと、アリアは目を見開いた。そうして、振り上げた手を、力なく脇に落とす。発動しかけた魔法は、光の粒となって霧散した。
 遠くに、何かが崩落する音がする。突如止んだ攻撃に、しかし反撃は訪れなかった。
 アリアはアッシュを背に、ただ、立ちつくす。
「……アッシュ、さん」
 化け物のような力を見せられて、それなのに何故この人は、自分に触れてくるのだろう。
「大丈夫、なんですか」
「ああ……」
「怖く、ないですか?」
「何故?」
 不思議そうに問う声に、視界がぼやけていく。
「それとも、あんたは、俺も殺すのか?」
 アリアは、必死で頭を横に振る。その揺れに合わせて、瞼からほろほろと、涙がこぼれ落ちた。
 遠くで、呻きながら去っていく人影もよく見ることが出来ない。追おうと伸ばした腕は、アッシュの手によって遮られた。
「ごめんなさい……」
「何故、謝る?」
「無理矢理、力を奪いました。気持ち悪い力を、見せてしまいました……」
 ごめんなさい、と。
 謝罪を繰り返すアリアに、アッシュは何も答えなかった。ただ、肩を抱く腕に力がこもる。
 アリアの啜り泣きの声。小さく炎の爆ぜる音。遠くで何かの崩れる振動。人の声以外が響く、沈黙。
 どのくらい経った後か。アリアの涙が止まるのを見計らったように、アッシュは口を開いた。
「――頼みがある」
 頬を拭いながら、アリアは後ろの彼に目を向けた。
「俺の言うとおりに、魔法を使ってくれ」
「え?」
「俺の魔力なら、どれだけ使ってくれても構わない」
 何を言うのだろうか。散々、アリアに魔力を取られた後だというのに、アッシュはその行為自体に恐れをなすどころか、更に取れと言ってくる。
 目を見開くアリアに、アッシュは、頼むと繰り返す。
「火を、消さなきゃいけない」
「でも、範囲が広すぎます。私だけじゃ、いくら何でも……」
「方法が、ひとつだけ、ある」
 確信があるのか、きっぱりと言い切るアッシュに、アリアは戸惑った視線を向けた。
「俺の放出力じゃ、本当は呼べないんだ。あんたなら、出来る。だから、力を貸してくれ」
「……どう、するんですか?」
「俺の言う言葉を復唱してくれ。そして、想像してくれればいい」
 言葉を切り、アッシュは遮るもののない空を見上げた。
 未明。地平線が薄く光の線を描き、夜が去る直前の最も濃い闇が中天にある。地上を赤く這う炎を受けて尚も深く。
「あの空を覆う、金色の帯。――絹を束ねたような光沢を持つ羽」
 アリアは驚き、息を呑んだ。
「彗星のように光を残し流れる尾。それは朱とも金とも言えず色を交互に繰り返す。そして、長い首の先にある、冷ややかで、誇り高い真紅の目」
 天を覆い尽くす朱色の羽根、降り注ぐ黄金の光粒、揺れて立ちのぼる、真紅の炎。
 それは――
「何もかもを焼き尽くす、苛烈な炎を纏った、火の鳥だ」

 *

 噴き上げる炎の消失した道。向かい来る人影を、ギルフォードは万感の意を持って見つめやった。
「無様、ですね……」
 左腕を失い、全身から血を流し、力なく歩くその姿に、今は憐れみさえ覚える。やがてギルフォードに気付き、立ち止まった男は、呪いを込めるように唸り声を上げた。
「ミリムの弟子か……っ」
「あなたが殺した、クーラ・ブライの兄でもありますがね」
 冷ややかに、ギルフォードは事実を口にする。無論、ただ指摘しているわけではない。けして容赦しないという宣言だった。
 体を強ばらせるヒュブラを見下ろし、ギルフォードはすらりと剣を抜き放つ。丸腰の相手に、という意識はこの際投げ捨てている。情けをかける相手かどうか、彼の中ではとうに結論がついていた。
「また、魔法戦になるかと思っていましたが、手間が省けたようですね」
 魔力など、殆ど残っていないだろう。止まる様子のない出血が、それを如実に示している。ギルフォードもけして、ヒュブラのことを言える状態ではなかったが、湧き起こる感情が確実にそれを底上げしていた。魔力の欠乏による酷い脱力感を、思いが凌駕している。
「大人しく、法の下に裁かれますか?」
 一応のように問いかけたのは、フェルハーンに対する義務だった。ヒュブラはけして頷かないだろうことも、大人しく刃にかかる気もないことも、判りすぎるほどに理解している。
 案の定、彼は引き攣った笑みを浮かべた。敗者にあるまじき、獲物を喰らう寸前の、壮絶な喜色。――だが、それに気圧されることなく、ギルフォードは勁い目で彼を見返した。
 時が止まるような錯覚が、二人の間に横たわる。やがて――
「……これで、終わったとは思わないことだ」
 言い捨て、歯をむき出しにして嗤い、ヒュブラは勢いよく右手を翻した。
 一瞬の、攻防。
 瞬時に展開された結界を、ギルフォードは鋭く剣で突き、砕く。細い悲鳴が儚く散っていく中を、刃は更に走り抜けた。
 肉を断ち、骨を砕く鈍い感触が、ギルフォードの両手へと伝播する。勢いのままに転がり落ちる、肉塊。一瞬遅れて噴き上がった鮮血は、天井の残骸を瞬く間に朱く染めた。
 返り血を拭い、ギルフォードは荒い息を吐く。
 やがて、支えるものを失ったヒュブラの体は、自らの血溜まりの中に崩れ落ちた。いっそ、あっけないほどの決着だった。
「……安っぽい、捨て台詞ですね。この先、あなたのような人物が、二度と現れないなどとは、誰も思っていませんよ」
 虚空を睨む、血に染まった頭部を見下ろし、ギルフォードは冷ややかに断定した。
「ただ、あなたはここで、終わりましたがね」
 そうしてギルフォードは、首を無くした体を、無造作に引き倒した。仰向けになった遺体の服を剥ぎ、目的のものを手に入れるために探る。それは、すぐに見つけ出すこととなった。
「……これが」
 余程、大事なものだったのだろう。油紙に包まれたそれは、上着の下の隠しポケットに、丁寧にしまわれていた。
 古びた、手帳のような薄い本。紙を捲り中を見れば、万感の思いに胸が騒ぐ。
「ゼフィル・アドラス……」
 書かれた文字は、古代文字から現在使われている文字への過渡期に相当するものだろう。魔法を学んでいる者であれば、比較的馴染み深い。
 走るように書かれた手書きのインクは、所々滲み、紙も随分とすり切れていた。濃い茶の染みについては、深く考えないほうがいいだろう。
 どちらかと言えばそれは、魔法について書かれた本というよりも、個人の手記に近かった。古代の男が、逆魔法の持つ可能性を書き記した記憶の書。
 かつて師から聞いた内容も、所々に書かれていた。逆魔法の原理、そして、その初歩とも言うべき沈黙の魔法。研究成果については比較的抑えた筆致で書き込まれていたが、所々、殴り書いた感情的な注釈も加えられている。
 ある意味、主流となっている魔法を根本から覆すような、画期的な魔法を開発しながらも、ゼフィルという男は満足していないようだった。後半になるほどに、黒く塗りつぶされた箇所と、殴り書きが増えていく。失敗と、後悔の繰り返し、それでも止めることのない、執念さえ感じた。
 ――彼は、何を求めて、魔法を作っていったのだろう。怨嗟と嘆きと深い絶望に満ちた、懺悔にすら、見えてくる。
 周囲の状況も忘れて読み進めていたギルフォードは、ふと、違和感に眉根を寄せた。奇妙な落ち着かなさを感じ、その原因を探る内に、炎の中を走りながら聞いた、フェルハーンの言葉を思い出す。
「……っ」
 その可能性に思い当たり、ギルフォードは口元を手で覆った。だが、一度浮かんだ考えは、容易には消えてくれそうにもない。そればかりか、文字を追うごとに、それは確信へと変わっていく。


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