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 *

 どういうことだろう。
 記憶にあるのは、黄金のさざ波だ。天を覆い尽くす美しい光の羽。背中から支える腕はとても安定していて、アリアは遠慮無く凭れていたものだ。歌うような鳴き声、雪のように降る光の欠片――。
 覚えている幻想的な光景は、夢に見そうなほど美しかったが、今は、有り得ないほどの至近距離に、悪夢に出そうなほどの美貌がある。
「凄い、なんて綺麗なんだ!」
 上擦った声が耳元で聞こえるが、折角の美声は大音量故にただ耳に痛い。
「さすがに、こうなるとは思わなかったな、いや、凄い、凄い」
「義兄上!!!」
 怒り心頭――間違っても自分には向けられたくない怒声とともに、みっちり張り付いていたものが剥がされる。力の入らない体で精一杯深呼吸をしたアリアは、優しく肩に置かれた手に気付き、おそるおそると顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
 なにこの、美形のオンパレード。頭の中で、呆れた声がする。
「突然、驚かれたでしょう」
「い、いえ、いや、はい」
 動揺も顕わなアリアの声に、ギルフォードがふわりと笑う。条件反射のように顔を赤らめ、アリアは視線を逸らした。何日経ったのかは判らないが、起き抜けに殺人的な微笑はいただけない。頭が、枕の方へ引き返しそうだ。
 加えて何故か、フェルハーンよりは幾分マシと言えど、ギルフォードもまた間近で、感心したように頷きながらジッと見つめ来る。
「いや、しかし、見事ですね……」
「あの、何のことですか?」
 ここしばらく飲まず食わずが続いているのだ。やつれている自信ならあるが、それならば見苦しくこそあれ、凝視される理由にはならない。
 アリアの指摘に、ギルフォードはああ、と笑って後頭部を掻いた。
「すみません。突然のことは、私の方も同じですね」
「いいえ。何かあったんですか?」
「見てもらった方が早いでしょう。少し、失礼します」
 ギルフォードの、男にしては綺麗な手が耳の横を掠める。驚く間もあらば、彼はアリアの髪を一房、つい、と持ち上げた。
 なんとなしに目を遣って、アリアは息を呑む。
「……っ!?」
 驚きのあまり、アリアは声も出ない。少し離れた場所で、ディアナに拘束されながら、フェルハーンがにやにやと含みのある笑みを浮かべた。
「ほら、綺麗でしょう?」
 ギルフォードが微笑み、その指からさらりとこぼした髪の色は――見事な、朱金だった。泥水のように濁った灰色をしていた髪が、何故か目に痛いほど鮮やかな、光沢のある色に変わっている。束ねた部分は朱に、光を受けて揺れる度に金に、緩やかに波紋を描く。
 気を失う前に見た、あの色彩と同じだ、とアリアは混乱する頭の中で、そう思った。――これは、まさか。
「す、凄い……」
 アリアは、ごくりと唾を呑む。
「ど派手なカツラですね」
「ちがーう!」
 勢い、叫んだのはフェルハーンである。
「火で燃えたとか、ハゲたから被せたとかじゃないよ、それは、地毛! 自分の髪!」
「え、しかし、殿下。私は確か……」
「だから、それは、アッシュの色なんだよ」
「……へ?」
 王族への返答としては、あまりな間抜けさだったが、勢いに押されたアリアには他に言いようがなかった。何故ここでアッシュの名前が出てくるのか、さっぱり判らない。ギルフォードも似たような反応である。
 フェルハーンの妙に興奮した様子に、不吉なものを感じたのだろう。ディアナが、ひたすらまごついていた医師を、半ば強引に室外に追いやった。
 それを見計らったように、フェルハーンは口を開く。
「アッシュの魔力は、それはもう、眩しいんだ」
「はぁ」
「白くなるほどに鮮やかな朱金の炎が噴き上げてる。体の周りを取り巻いて、遠目からでもすぐに判るほどに見事なんだよ。濃密で、薄っぺらさなんて欠片もなくて、本当に綺麗で、――丁度、君の髪と同じ、ね」
 ここまで言われて、さすがにアリアも理解した。
 もしかせずとも、この髪は、吸い取った魔力に応じた色に成るのではないだろうか。離宮にいた頃は、まだいろいろと混じっていた。ヒュブラやその他の魔力も残っていたために、濁った色をしていたのだろう。それが今、余計な魔力を使い切り、アッシュのものだけになった。――故に、単一の色となった。
「おそらく、君が魔力ゼロの状態なら、髪に色はないんだと思う」
 未だ信じられない面持ちで、ぽかんと見遣るアリアに、フェルハーンが追い打ちをかける。
「……いや、しかし、綺麗な朱だね。長く伸ばして、私の侍女にならないかい?」
「え」
「いや、いっそ、一本残らず抜き取って、飾っておきたいくらいだ」
「そ、それは……」
 妙にうっとりとした調子で話すフェルハーンに、アリアは完全に引いてしまっている。その狼狽えぶりを面白く見たか、そうさせた張本人は、たっぷり時間を置いた後、急に醒めたようにまともな顔でにっこりと笑った。
「冗談だよ。残念ながら、抜いた毛は、しばらくしたら魔力も拡散してしまうみたいだからね」
「……義兄上。そのあたりにしておいた方が、義兄上の命のためによろしいかと」
 地を這うような低い声に頬を引き攣らせたフェルハーンは、逃げるように両手を上げた。険呑な表情をしていたのは、ディアナだけではない。ギルフォードも、眉間に皺を寄せてフェルハーンを睨んでいる。
 正直なところ、「お前は要らない、髪の毛だけ寄越せ」と言われたも同義のアリアであるが、先にふたりが怒ってしまっため、不完全燃焼のような形になっていた。もとより、フェルハーンには、どうも試されているような気がする。
 ふざけている様子だが、どことなくわざとらしさが見え隠れするのだ。
 彼は何を聞きたいのだろう。そう思い、アリアは首を傾げた。
「殿下」
「ん? 何だい?」
「……ギルフォードさんも、なんだか知っているみたいなのでお伺いしますが、アッシュさんの方は、ご無事なのですか?」
「綺麗になったことだし、また、あいつからもらいたいのかい?」
「違います! 色なんて、綺麗だろうと汚かろうと、どうだっていいんです」
 第一、アリアの感覚から言えば、どうにも恥ずかしいほどに派手すぎる。
「問題は、私が、こんなになるまでアッシュさんの力を取ってしまったことで、彼が苦しんでるなら、私、見かけが少しましになろうと、全然嬉しくないんです」
「力……」
「え?」
「魔力、今、すごく満たされてるだろ? 力強くて、もの凄くいい力だろう?」
 いきなり、何を言い出すのか。
「離宮を燃やしたのも、莫迦みたいに凄い魔法を使えたのも、全部、あいつの桁外れの、化け物じみた力のせいだよ。しかも、それにしたって、ほんの一部に過ぎない。本気を出したら、王都くらい灰にする力はあるだろう。アリアは、それでもあいつが怖くないかい?」
 アリアは、目を丸くしてフェルハーンを見つめた。いつの間にか、彼は真面目な表情を浮かべている。どうやら、上っ面の馴れ合いではなく、本音の方にアリア自らが話を持って行ってしまったようだ。
 慎重に言葉を選んで、アリアは口を開いた。
「……アッシュさんの力が弱かったら、多分、私、魔力を奪いすぎて殺してました。だから、桁外れだろうと、化け物じみていようと、私には、その強さが嬉しいです」
「その強さが、君に牙を剥くことがあるとしても?」
「アッシュさんは、優しい人だと思います。もしか、そうなることがあるのなら、私に非があるのでしょう。だいたい、力云々を仰るなら、私の方が余程規格外です。アッシュさんはただの力の強い魔法使いで済みますが、私は明らかに違います」
「……そうだね」
 フェルハーンの頷きに、ディアナとギルフォードが気色ばむ。
「では何故、君は、その力を秘密にしておかなかったんだい?」
「義兄上!」
「殿下! いくら何でも、聞いて良いことと、悪いことがあります!」
「おや、私は悪者かな? 純粋に、聞いてみたいじゃないか」
 軽い調子で喋ってはいるが、フェルハーンの目は笑ってはいない。怒るふたりを振り返りもせずに、真っ直ぐにアリアを見つめているのが証拠だ。
 そしてアリアはやはり、彼の心の読めぬままに、思うことを口にした。
「私は化け物です。でも、助けられる人を放っておくような、卑怯者にも臆病者にもなりたくないと、そう思い直したからです」
「……複数人に襲われてる、見ず知らずの者が助けを求めた場合も、君は力を振るうのかな?」
「しません。出来る限り助けの手は出しますが、人外の力は使いません。どの人をどうやって助けるかは、私が決めます」
「勝手だね」
「はい。ですが、力は力でしかありません。どう使うかは、人の意志次第です。私は、私の命と天秤にかけて、心の傾いた人にのみ、呪われた力を振るってでも助けます。ひどいようですが、私も無事に生きていたいと思っています。心が力の質を決めるなら、それも有りでしょう」
 一連の事件の中で、アリアは自分でも少しだけ、成長出来たのではないかと思っている。呪わしい力だとだけ思っていたものの本質を、理解できたようだった。
 力は力。どれだけ凶悪でタチの悪いものであろうと、それはそういうものでしかない。どう使うかは、人の意志に依る。有るのだから使わなければならないものでも、強すぎるから絶対に使ってはならないものでも、ない。言葉面では理解していたつもりだったことを、今回の事件で、アリアはようやく自分のものにすることができた。
 だが、まだ彼女は人生経験に乏しい。迷い無く力の使い道を間違わずにいられるようになるには、何十年の年月と経験を積み重ねなければならないだろう。
 ――ただ今は、それでいいと、思う。
 迷い無く言い切ったアリアを見て、果たしてフェルハーンは、満足そうに微笑んだ。
「勁い心を持ってる」
 振り返り、彼はディアナに片目を瞑ってみせた。
「君の教育成果だね。私には無理だったことだ。恐れ入る」


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