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「しっかり食え」
「……はい」
 思えば、離宮に到着する少し前に携帯食を食べて以来、何も口にしていない。殆ど意識を飛ばしていたと言えば、空腹を感じる間などなかったというのが正解だが、寝ている間にもエネルギーは消費されるのだ。想像以上に痩せてしまっている可能性も高い。
 そういえば、とアリアは話題を思いついて口を開く。
「あ、アッシュさんは、髭、剃ったんですね」
「いつもは剃ってる」
「……あう」
 確かにその通り。離宮での無精髭が妙にしっくりきていた為、記憶の方を修正してしまっていたようだ。
「見苦しくて悪かった」
「イエ、その……あ、アッシュさんこそ、怪我は……あ」
「ない」
 見事に掘ってしまった墓穴に、アリアはがっくりと項垂れた。触れてはいけないところを、抉ってしまったようなものである。ここで更に悪いのは、言われた方が何をどう思ったか、全く判らないところだった。
(は……話が続かない)
 何しに来たんだ、この男は。
 まさか、フェルハーンに言われたからとかではないだろうか。そう怪しんでみるものの、聞くに聞けない雰囲気であるところがどうにも悔しい。案外話せば面白い人物であると判っているが、ネタがない時には如何ともしがたかった。
 どうしたものかと悩むアリアを余所に、困らせている張本人が、今更気付いたかのように口を開く。
「色、変わったんだな」
 さして驚いた様子もない。
「派手だな」
「私もそう思います」
「フェルハーンの奴、喜んでただろう」
「え?」
「エルスランツの奴らは、大概こういう朱い色が好きだ」
 他人事のように言っているが、この男もそうではなかったか。胡乱気に見遣れば、アッシュは僅かに目を細めた。
「まぁ、似合ってる。綺麗だ」
「……はぁ、どうも」
 案外この男、ギルフォードと同類なのかもしれない。即ち、真面目な顔で恥ずかしい科白を口にすると言うやつだ。心持ち赤面しつつ、アリアはとりあえず頭を下げておいた。
 そうしてふと、ずっと疑問に思っていたことを思い出す。
「あの」
 首を傾げて、アッシュはアリアを見つめた。
「そう言えば、どうしてあの時、離宮は燃えてしまったんですか? わざと、燃やしたわけではなかったようですけど」
「あれは、俺のせいだ」
「え? ヒュブラがやったわけじゃ、なかったんですか」
「ルセンラークのときはともかく、あそこで奴がそうする理由はない」
 思い返すように目を細め、その後アッシュは自分の手を見つめた。
「……どうして、か」
「……」
「俺が自分の意思でしたわけじゃないが、ああなったのは、初めてじゃない」
「前にも……?」
「ああ。……聞くか?」
 彼のふざけた所など見たことはないが、いつも以上に真剣な声に、アリアは反射的に深く頷いた。何故だかは判らないが、聞かなくてはならない、そんな気がしたのだ。
 数秒、思い出すように間を空けて、アッシュは口を開く。
「――丁度、十年、いや、十一年前か。俺はエルスランツ騎士団に入りたての新米で、丁度その頃に起きたセーリカとの小競り合いに、駆り出されることとなった」
 動員されたのは一個中隊と、小競り合いの生じる切っ掛けとなった小隊のみだった。比較的小規模な戦闘であったが、当時17才であったフェルハーンが関わっていたために、指揮は、当時エルスランツ騎士団副団長だったヒュブラが執ることとなった。
「もともと、エルスランツとセーリカの仲は悪い。当時、セーリカ出身の妃の生んだシャセンヌ王女は既に他国に嫁いだ後で、後に続く王子王女はなかった。その中で、ふたりも王子を持つエルスランツには、妬みが積もっていたんだろう」
 とかく、始まった小競り合いは、簡単には終わらなかった。
「俺はその中で、見事に魔法を暴発させたんだ。当時は魔法も中途半端、剣技は手習い程度、初陣という精神的に昂ぶった状況に全く抑えが効かなかった。止めようとしてくれた魔法の師も誤って殺してしまった後は、錯乱状態だ。たかだが一番下っ端の騎士に、ヒュブラが注意を向けているはずもない。奴やフェルハーンが気付いたときには、取り返しの付かない状況に陥っていた」
「……」
「コントロールの効かなくなった魔法でも、普通は魔力切れで終わることが多い。だが俺のは、お前も知ってる通りだ。消費魔力が全然追いつかず、際限なく生産されて溜まる。抑えれば抑えるほど、中に溜まってそれが暴発する。丁度、離宮と同じ状況になった。関係のないところ炎が生じ、一気に温度が上がり、あっという間に炎上した。ヒュブラや他の魔法使いの魔法も、全然効かなかった」
 そうして、退避する直前、高まりきった魔力という磁場は、炎の魔物を偶然に呼び出した。当時は今回のように目的を持って呼んだわけでもなく、あちらが勝手にやってきたのだ。故に、思うままに炎を撒き、大地を焼き、人を燃した。一般の兵にはひとたまりもなかっただろう。
 そうして、生き残ったのは、自ら炎を纏ったアッシュ自身と、防御魔法でどうにかやり過ごしたヒュブラ、そして彼に庇われたフェルハーンだけだった。今回の離宮で誰もが無事だったのは、暴走の結果招かれたわけではなく、アッシュとアリアが目的をもって呼び出したからに過ぎない。
「ヒュブラはしつこく俺に、どうやったのか聞いてきたな。言えるわけもなかったし、言わなかったが、今回のを考えると、気付いたんだろう。そして、お前も聞いた通り、あいつは、あの魔物見たさに、――俺の魔力を越えるために、今回の騒動を起こした」
 言って、アッシュは自嘲的に嗤う。少し意味不明な言葉にアリアは首を傾げたが、彼の様子に、聞くことは出来なかった。セーリカとエルスランツの軍を併せた約二百人近くを、彼は一気に焼き殺したも同然なのだ。それ以前の戦闘である程度減っていたのかも知れないが、それにしても大量虐殺には違いない。そうと判りつつ、更に詳しく突っ込むほど、アリアも無神経ではなかった。
 アリアに、ヒュブラの気持ちは判らない。いくら美しい光景だとは言え、人の命を引き替えにしてまでもう一度見たいとは思えなかった。ごく普通の、むしろ人に自慢できる範囲内で人より優れていたヒュブラは、その執着に於いて、人としての一線を越えてしまったのだろう。今思い返しても、憐憫ひとつ湧いてこない。
 そうしてふと、アリアはあの時には聞けなかった、もうひとつの疑問を口にした。
「アッシュさんはあの時、沈黙の魔法を掛けられてたんですよね?」
「ああ」
「離宮で、自傷行為してたのって、もしかして、魔法を消費するため、だったんですか?」
 思うように魔法を使えない状況で、唯一魔力を消費する方法だ。自らの体が傷つけば、魔力は自然に治癒しようと消費される。
 あっさりと頷いたアッシュに、アリアは頭痛を覚えた。
「……いくらなんでも、あれはないですよ」
「仕方ない。ああしなければ、もう何日も早く、炎上してたんだ。俺だって、好きで痛い思いしてたわけじゃない」
「まぁ、それはそうでしょうけど、もうちょっと、手加減できなかったんですか?」
 ヴェロナの怯え具合を思い出し、アリアは困ったようにアッシュを見つめた。
「その、ちょっとずつ切るとか」
「手加減してる場合じゃなかった。どうやったって死なないんだから、構わんだろう」
「死なないって、……頸動脈とか切ったら、さすがに死ぬと思いますけど」
「死ななかった」
「え?」
「切ったことがある」
 あっさりと言いきられた言葉に、さすがにアリアは頬を引き攣らせた。そこまで思い切ったことを、実験でするわけがない。二度目はともかくとして、一度目は、本気の自殺だったのではないだろうか。
 言葉を無くしたアリアを余所に、アッシュは仏頂面をそのままに、むしろ淡々とした声音で語る。
「誰もやってくれなかったから、さすがに首と胴を離してみたことはないが」
「……」
「楽にしてくれと頼んだが、断られた」
「当たり前です!」
「何故だ?」
 心底、不思議そうにアッシュは首を傾げる。
「何の関係もない奴らを、何十人、何百人と一瞬で殺した人間だ。生きていても、害しかあるまい」
 真顔。故にアリアは一瞬言葉をなくす。しかし、我に返るや、慌てて否定を口にした。
「好きで、やったわけでも、意識してやったわけでもないじゃないですか」
「そうだとしても、死んだ奴らは、それじゃ、浮かばれないだろう」
「だからって、アッシュさんが死んだって、それから誰も救われません!」
「フェルハーンもそう言った」
 思い出すように、アッシュは目を細める。
「俺が化け物だと知ってる、フェルハーンとヒュブラが殺してくれなかったんだ。他の、理由を知らない奴らに、意味もなく殺人させるわけにはいかんだろう」
「……」
「俺は一旦大怪我で騎士団を退団したことになって、いろいろ理由を付けて、あいつは俺に、魔法と武術を叩き込んだ。死なないのが判ってるからか知らんが、かなり滅茶苦茶なこともさせられたが」
 何でもないように言っているが、アッシュをして滅茶苦茶と言わしめる訓練など、アリアには想像も付かない。ただ、魔法も剣も一流に扱える現在のアッシュを見れば、それこそ血反吐を吐くほどのものだったとは判る。同じ年の男を比較するならば、どちらか片方だけでも習得するので精一杯、もしくはどちらも及びつかない可能性が高いだろう。
 同じく、自分を化け物と位置づけるアリアは、彼の他人事のような喋り方を聞くに、自分との違いを見つけて辛さすら覚えていた。アリアは、兄が止めてくれた。だがアッシュには、止めてくれる人がいなかった。止められなかったのかも知れない。だがそれが、およそ十年後のふたりの感覚に大きな隔たりを作った。
 おそるおそる、アリアは口を開く。
「……今でも、死にたいと思ってるんですか?」
「まぁな」


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