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 あっさりと頷く。だが、返答に顔を歪めたアリアを見て、アッシュはため息を吐いたようだった。
 そうして、おもむろに、備え付けのテーブルに右腕を置く。
「だが正直言えば、今は少し、足掻いても良いかとも思ってる」
「?」
 アリアの倍ほどに太く、如何にも固そうな筋肉質の腕を見下ろして、アリアは首を傾げた。よく日に焼けて健康そうではあるが、かなり無茶な仕事をしているにも関わらず、傷痕もなければ荒れてもいない。職人芸を極めたなめし革のように張りのある、立派な腕であるが、まさかただ、自慢したいわけではないだろう。
 行動だけ起こしておいて、何の説明もない。アッシュらしいと言えばそれで終わるが、アリアにしてみれば、まさか判らないからと言って、そのまま放っておくわけにはいかなかった。
 たっぷり間をおいてからアリアは、どういうことか、と胡乱気にアッシュに視線を向ける。気付いて彼は、首を傾げるとも顎をしゃくるとも取れぬ、微妙なリアクションの後に口を開いた。
「取れるんだろ」
「え?」
「魔力」
 言いきられた言葉に、アリアの顔からさっと血の気が引く。相変わらずの、極端な話題変換だ。まったくもって、心臓に悪い。
「そ、それは、そうですが」
 不意を突かれたせいだけではないだろう。もともと、人に問われることのなかった確認だ。アッシュに知られているのは大前提としても、堂々と認めるにはやはり躊躇いが生じてしまう。
 だいたい、この男は――
「その、不気味じゃないですか?」
「何がだ?」
「普通、魔力を吸い取ったりなんてできませんよね?」
「そうだな」
 頷きはするが、アッシュの目に変化はない。演技で平静を装っているなら大したものだが、彼の場合はそうではないだろう。あの時、炎上する離宮で躊躇いなくアリアを支えてくれたときのように、何ら気にしていない様子が窺える。
 図太いのか鈍いのか、と頭を痛めながらも、アリアはどこかほっとしている自分に気付いていた。
「……それで、この腕はまさか?」
 また魔力を取れ、と言っているのだろうか。確かに今のアリアの魔力は、潤っているとは言い難い。あって、一割程度だろう。くれると言うなら、ありがたいことこの上ないが、離宮では、散々アッシュから奪い取った後だ。たった数日の内に、彼の方が充分に回復したとは考えがたい。
「あの、実はちょっと、あんまり手加減できる状態じゃないので、やめておいた方がいいと思うんですが……」
「構わん」
 とりつく島もないとは、このことだろう。
 天を仰ぎ、アリアは深々とため息を吐いた。力を、恐れられるのは胸が痛いが、ここまで堂々と受け入れられるとむしろ狼狽する。
「辛くなっても、知りませんよ?」
 短く、はっきりとアッシュは頷いた。こうなれば、アリアも覚悟を決めるしかない。出来るだけ大量に奪ってしまわないようにと戒めながら、アッシュの腕に手を置いて、意識を集中させる。
 ――甘い。
 ゆっくりと流れ込んでくる魔力は、離宮で感じたように力強く、染み渡るほどに純粋で濃厚な感触だった。暖かく溶けるようで、それでいて震えるような力に満ちている。
(美味しい……)
 その快感に我を忘れかけ、アリアは慌てて頭振った。内面に意識を向けるまでもなく、体中に感じたこともない活力が湧いていることが判る。だが裏を返せば、それだけ一気に魔力を吸い取ってしまった相手がいるということだ。かなり手加減したつもりだが、あまりの美味に調子に乗ってしまったらしい。
 アリアは太く硬い腕に指先を置いたまま、おそるおそるアッシュを伺った。
「あの……」
「何だ?」
「し、しんどくないんですか?」
「いや」
 言って、ふと何かを思い出したようにアッシュは首を傾げた。
「気分は悪くないか?」
 初対面の時、彼はアリアが倒れているところを目撃している。その原因が今行ったことと同じものだということに気がついたのだろう。
 かなりの魔力を奪われただろうにも関わらず、素で平然としているアッシュの貯蓄量は脅威だが、その勘の良さも実はなかなか侮れない。フェルハーンとは違った意味で敵に回したくない人物である。
「気分良好です」
「そういうものか?」
「はい。――美味しかったです」
 アリアとしては正直な、そして最も適切な表現だったのだが、アッシュには予想外だったらしい。何度か瞬いた後、表現しがたい複雑な表情で口を開いた。
「美味しい?」
「はい。ものすごく」
 言って、アリアは耐えきれず、にへらと締まりのない笑みを浮かべた。
「酔っぱらいそうに美味しいです」
「酔……」
「アッシュさんには当たり前の力かも知れませんが、本当、濃いのにすっと入ってきて、後を引かないんです。のどごしが良いとか、切れが良いとか、そんな感じです」
 言い終えるのを待たずに、アッシュはがっくりと項垂れた。アリアが右腕を押さえたままでなければ、頭でも抱えていたかも知れない。
 慌てて、アリアは取り繕うように言葉を重ねた。
「あ、あの、別にからかってるとかじゃありませんから」
「……」
「莫迦にしてるとか、そんなんでもなくてですね、そう表現するのが一番適切というか、疲れたときに一番の好物を食べたときの感覚と似ているというか……」
 喋れば喋るほどドツボに嵌っていくのは気のせいではないだろう。上手く伝えようとはせずに、満足であるということだけ言っておけば良かったと、アリアは今更ながらに後悔した。
「あの、ものすごく質の良い魔力だと言いたいわけでして」
 俯いたままのアッシュの肩が震えた。
「なんと言いますか、……、……あう」
 ついには、右手で拳まで作り始めたその状況に、アリアは口を噤んで壁際に後退した。左と頭元は壁と窓、足下には柵、右には当然俯いたままのアッシュとなれば、いくら逃げ出したくともそれが精一杯である。
 永遠かと思われた沈黙は、実際には五秒もなかっただろう。
 やがて聞こえた声に、アリアは――気まずさも忘れて耳を疑った。
「――はっ、」
 震える拳、勢いよく息を吐き出す、声のようなもの。
「ハハ……、あんた、おかしな女だな」
 脱力していたはずのアッシュは途端、顔を上げ、腹を抱えて苦しそうに笑い始めた。
「美味いか、そうか……」
 突然のことに、アリアは言葉もない。
 アッシュが笑っている、その事実がアリアの思考回路をショートさせていた。心から可笑しそうに、しかしどこか泣き笑いにも見えるその笑顔に釘付けである。夢でも見ているのかと考える余裕すらない。
(――――か)
 漸く脳裏に浮かんだのは、
(かわいい……!)
 言えば、間違いなく睨まれそうな、あまりにも失礼な感想だった。だが普段の仏頂面との差違に、どうにも見惚れてしまう。大振りで飾り気も色気もない、しかし屈託のない純粋な笑顔。合った視線に、アリアの心臓が跳ね上がる。
 やがて笑いを収めたアッシュは、幾分真面目な顔でアリアを正面から見つめた。
「悪い。――それで、もういいのか?」
「え?」
 衝撃から冷めやらず、動揺も顕わにアリアは彼を見返した。言葉と内容が頭に追いつかない。目を弓なりに、唇を微笑の形に曲げたまま、アッシュは右腕を再びテーブルの上に乗せた。
「魔力」
 短く、簡潔。笑っているからといって、そこまで変わるわけではなさそうである。だがようやく彼の言わんとしていることを理解し、次いでアリアは、疑わしそうに口元を引きつらせた。
「だ、大丈夫なんですか?」
「いいから、満腹になるまで取ってみろ」
「倒れても知りませんよ」
「危なくなったら振り払うから」
 面白そうに、挑発するようにアッシュは手で招いた。これもまた見たことのない、言ってみれば楽しそうな表情に、アリアの顔が再び熱を持つ。
(は、反則だー)
 騙された気分のまま、半ば自棄気味にアリアは太い腕に手を置いた。よく分からない感情を振り払うように、魔力の吸収に意識を向ける。
 何の抵抗もなしにすんなりと染み入る力は、変わらず極上のものだった。甘露と表現するのが正しいのかも知れない。
「お」
「美味しい?」
 言葉尻を捉えて、アッシュはにやりと笑った。嫌味はなく、あからさまにからかっていることは明白、反論することも出来ず、アリアは耳元まで紅く染めて俯いた。穴があったら地下何十メートルまで潜りたい心境である。
(なんかもう、いろいろと複雑だ……)
 情けなさと幸福感を羞恥心で混ぜて興奮で割ったような、他人にはとても説明できない感情が心を占めている。流れ込む魔力は非常に魅力的だったが、それに集中できないほどにアリアは混乱していた。平然と、どこか楽しそうに眺めくるアッシュがどうにも恨めしい。
 やがて十四、五分も経過したころ、漸く充足感を覚えて、アリアはアッシュの腕から手を離した。
「もう無理です」
「腹いっぱい?」
「十分目です」
 降参するように両手を上げる。
「多分許容量いっぱいだと思うんですが、アッシュさんは大丈夫なんですか?」
 まがりなりにも魔力貯蓄レベルは8、一流魔法使いの域である。日常生活で使う魔法程度であれば、消費するのに一週間はかかるだろう。純粋にアリアの身体を維持するだけに使ったのであれば、ひと月近くは持つに違いない。目覚めたときには殆ど空の状態であったことを考えると、さすがにアッシュの体調が心配になってくるというものだ。
 だがアッシュは気にした様子もなく、体を反らせて大きく伸びをした。
「半分弱、くらいだ」
「はい?」
「あんたの貯蓄レベル――許容量いっぱいは、俺の許容量の半分に少し満たないくらいだ」
「えええええ!!?」
 愕然として、食い入るように男の顔を見つめやる。
「あの、一応私、許容量はそこそこあるんですが……」
「らしいな。多分、あんたが本来自分で生産できた場合の魔力の質と違うからじゃないか? そうだな、あんたの表現を借りれば、俺の魔力は濃厚だから、少しの量であんたの体は満足してしまうんだろうさ」
 頭を抱えて、アリアは机に突っ伏した。
「まぁさすがに、一気に半分取られれば、少し眠い感じはするけどな」
 頭を撫で、髪を掬う優しい手がある。一瞬驚きはしたが不思議と嫌悪感はなく、アリアは心地よさに眼を細めて手の主を伺った。日溜まりに、微笑を浮かべた彼の顔は、見たこともなく穏やかだった。
「こんなに体が軽く感じられるのは初めてだ」
「そうなんですか?」
「なんだかんだ、いつも怯えてたからな」
 不思議そうに見遣ると、アッシュは困ったように首を傾げてみせた。
「意識を失うのとか、――眠ることすら、怖かったんだ。気がつかないうちに、魔力を溜め込んでしまったらどうしようってな」
 アリアは目を見張った。そうして条件反射のように浮かんだその推測に、心臓が一度大きく跳ねる。力はある、しかし強い魔法は使えない、フェルハーンも示した、その矛盾。
 ああ、とアリアは思う。アッシュはずっと、過去の話をしているときに、魔力が溜まる、と言い続けていた。よくよく考えれば、いくら魔法が暴走しようと、余分量は自然放出されているわけで、自分の許容範囲を超えた魔力を溜め込むことはない。つまり、通常の魔法使いであれば、どれだけ精神錯乱を起こそうと、自ら使用できる範囲を超えた魔法は使うことは出来ないのだ。
 ――俺の放出力じゃ、「本当は」呼べないんだ。あんたなら、出来る。
 離宮で、アッシュに言われたことを思い出す。彼が過去の話の間に、言い濁した内容が、今になって判るとは。
 アッシュは、深く息を吸い込んだ。

「俺は魔力不均衡症候群なんだ。10-8-6、放出低下型の」

 アリアには、言葉もない。
 低い声が僅かに震えていたのは、むしろアッシュの勇気の結果だろう。躊躇いと普段の陰鬱、今の重圧から解放されたような和らいだ表情を見れば、過去の傷痕が彼に何を残していたのかなど、想像するまでもない。
 自らその欠陥のことを、殊更にはっきりと口にするのは、彼にとって苦痛以外の何ものでもなかっただろう。
 アリアは身を起こし、真正面からアッシュを見つめた。
「私は魔力不均衡症候群なんです。0-8-9で、生産ゼロの」
「――そうか」
 同情でも憐れみでもない静かな表情で、アッシュはアリアを見返した。そして、眉尻を下げて労るように目を細める。伸ばされた手がアリアの頭を撫で、額を軽く小突いて離れていった。
「仕方ないから、俺の魔力分けてやるよ」
 アリアは口を尖らせた。
「だだ漏れの魔力、勿体ないのでもらって上げます」
 そうして、くすりと笑う。
 つられたようにアッシュも大振りの笑みを浮かべ、――やがて、ふたつの泣き笑いで室内が満ちた。


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