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 *

 果たして数日後、魔法院にあるアリアの室に文字通り押しかけてきたアッシュは、ヴェロナの話を聞くにあたり、意外そうに眉根を寄せた。
「それで?」
「……で、って?」
「その女は、俺にどうして欲しいんだ?」
 案の定、といったところか。否、それ以上に、ヴェロナのことを「その女」呼ばわりしたことからして、彼女に怯えられた一件は記憶にすら残っていない様子である。アッシュにとっては、特筆すべき事ではなかったからだろう。
「どうしてって、うーん、どうすればいいですかね」
 言い、アリアは横に座る男の顔を見上げた。
 最近は少し、不機嫌そうな仏頂面が形を潜め、雰囲気も柔らかくなった、ような気がする。だが例えばヴェロナが、正面切って頭を下げたとしても、彼女の求める反応は得られないだろう。にこりと笑って「気にするな」と、ただそれだけのことで事は済むのだが、それが出来る男なら、そもそも誤解など受けないのだ。
 双方共に自然に納得の出来る決着を求めるのは、贅沢というものだろうか。
 首を傾げた先、右の側頭部に男の腕が当たり、アリアは慌てて身を引いた。
「あ、ごめんなさい」
「いや」
 考えに没頭する余り、集中力が削げていたらしい。今はアッシュから魔力をもらっている最中であったと思い出し、アリアは僅かに顔を紅くした。
 魔力を遣り取りする際は、なんとなしにいつも、アッシュの左横にアリアが座る、という構図になっている。ふたりが座るのに都合の良い椅子などなく、大概地べたに座り、アリアがアッシュの左腕のどこかに適当に触れ、とりとめもなく喋り、時には本を読みながら、時間を潰しているのだ。
 双方共に負担なく魔力を遣り取りするには、それなりに時間を必要とする。一気に行っても身体的に問題はないが、どうやら、急速に流れ込んだ魔力の一部は、アリアに馴染まないまま霧散してしまうらしい。アリアの許容量を一割埋めるのに五分ほどかけるのが、一番効率が良いというのが、何度か繰り返した上での結論だった。
 場合によっては長いと感じる時間であるが、別段、アリアには苦痛と言うこともない。困るのは今のように、気を抜けば凭れてしまうということだった。誰に見られているわけでもないが、なんとなしに恥ずかしい。いっそ凭れてしまえと思うには、アリアの方に免疫がなさ過ぎた。
(微妙すぎる……)
 正直、他人の仲直りの橋渡しをしている場合ではない気がする。持ちつ持たれつの関係に完全に収まってしまうか、いっそ積極的に関係改善に挑んでみるべきか、――どうするべきか、相談したいのはこちらだと、実行不可能な思いにアリアはため息を吐いた。
「そんなに悩むことか?」
「え? あ、いえ、そうじゃないです」
 ため息を、ヴェロナの件のことと勘違いしたようである。
「違うんですけど、あー、いえ、ちょっと別の考え事です」
「それならいいが、集中できないなら、明日にでもするか?」
「や、大丈夫です。ごめんなさい」
 誤魔化すように笑い、今度こそ本当に魔力の吸収に気を向ける。アッシュは、訝しげに首を傾げたようだったが、それ以上の追及は口にしなかった。
「まぁ、さっきの話だが」
「はい?」
「ようするにその女は、俺の思いはどうであれ、自分には詫びるという、出来るだけのことをやったと思いたいんだろう?」
「ぐ……。それを言っちゃ、身も蓋もありません」
「で、――何がそれにあたるのかはともかくとして、俺に許して貰いたい、と。だからあんたが、俺は気にしてないから謝らなくていいと伝えたところで、根本的に納得してもらえないってことか」
「ぶっちゃけて言えば、そういうことです」
「厄介な性分だな」
 否定は出来ないが、それでもアッシュには言われたくないだろう。どちらかと言えば、世間一般から見て扱いづらいのは圧倒的にアッシュの方なのだ。ヴェロナはとりあえず、侍女という仕事を卒なくこなしている。
 それに、とアリアは思う。アッシュの突出した力を目の当たりしながらも己を一方的な被害者とせず、きちんと自分の態度と向き合うことが出来るのは、明らかにヴェロナの美点である。精神的に幼い者であるなら、そも、アッシュのことを化け物扱いし、彼の人間性を全否定したまま、恐ろしい出来事だったとだけ認識して忘れようと試みるだろう。
 故にアリアは、この件について、どうにも放っておけなかったのだ。
「夢オチとか……物語じゃあるまいし、都合の良い記憶修正なんて、出来ないですしねー」
「人の記憶を操る魔法か? そんなもん、あったら世界が混乱する」
「判ってますよ。言ってみただけです。そんな、生きてきたことを全否定するみたいな魔法、あったら嫌です」
 アリアもアッシュも共に、己を苛む辛い過去を持っているが、だからといって、忘れたいとは思っていない。今となってはそれは、既に戒めの域を越えて、思考や行動の定礎となっているのだ。
 アリアの強い否定を耳に、アッシュは、思案するように頭を傾けた。
「……記憶修正か」
 呟き、こめかみを掻く。
「なかったことにはできないが、勘違いにはできるかもな」
「え!?」
 ぎよっとして、アリアは目を丸くした。
「そんなこと、――無理ですよ! あれだけばっちり、何度もしっかり見られてるじゃないですか」
「だからそれを、あの場だけのことにすればいい」
「あの場だけって、つまり、ヒュブラが何かした為、ってことにするってことですか?」
「まぁ、そうだ」
 言って、アッシュは意味ありげな目をアリアに向ける。何か企んだような色をそこに見つけ、アリアは口元を引き攣らせた。ギルフォードにもフェルハーンにも否定されたことだが、このところアッシュは時々、悪戯を思いつくようになった、とアリアは思う。もともと頭の良いアッシュのこと、確かにそれは、悪戯と名案の区別の付きにくいところではあるが――
「もしかして、私も何かするってことでしょーか……?」
「勿論。あんた抜きでは無理な事だな」
 あっさり、はっきりと首肯したアッシュを、アリアは胡乱気に眺めやる。
「あんたにとっても、そう、悪くない話だと思うがな」
「と、言いますと……?」
「魔法の練習したい放題ってことだ」
 頭に疑問符を浮かべたアリアに、アッシュは獰猛一歩手前の笑みを向けた。

 *

 数日後――

「その、何かお疲れのようですが、アリアさん、大丈夫ですか?」
 気遣わしげなヴェロナの言葉に、アリアは苦笑とも自嘲ともつかぬ笑みを浮かべた。
 夕暮れ時、誰もが夜の冷気に身を絡め取られる前にと家路を急ぐ中、ふたりは手を擦り合わせながら、待ち合わせの場所に向かっている。そうそうに第二区画の端にある魔法院の周辺まで降りては来られないヴェロナに合わせ、落ち合う場所をアッシュが指定してきたのだ。彼はと言えば、仕事が終わり次第駆けつけることになっている。
「確か、このあたりですけど」
 数日前に一度、直接連れてきては貰ったが、なにぶん薄暗くなりつつある時間帯、周囲の景色も似通って見える。記憶をたぐり寄せつつ、アリアは崩れた石壁の隙間に半身を滑り込ませた。
「……あれ?」
「どうなさったんです?」
 現在使われている城壁と、古い城壁の間に出来た隙間を利用した、仮住まいにしか使えないような狭い民家と言えばいいだろうか。古い木の扉を開けてすぐ、炉と机と簡易ベッドしかない一室だけの家には、すでに魔法の灯りが灯されていた。机の中央に置かれたカンテラが、弱い光を揺らしている。
「先に、来られたのかしら?」
「うーん? 他に部屋はないはずですけど。一旦外に出たんでしょうかね? でも、なんだろ、この臭い……」
「臭い?」
「ええ。前はこんな臭いしなかったはずなんですけど」
「?」
 埃っぽさに入室を躊躇していたヴェロナは、首を傾げたアリアにつられたように、室内に首を突っ込んで大きく息を吸い込んだ。
「……」
「ここ数日の間に、誰かが使ったんでしょうかね? 強制的に排気しますから……って、ヴェロナさん?」
「アリアさん……」
 湿り気を帯びた、じっとり胡乱気な目がアリアに向けられる。
「ここ、どういう場所ですの?」
「え? どういうって。……騎士団の、緊急時の待機場所だって聞きましたけど」
「本当に?」
「本当、だと思いますけど。ええと、ほら、カンテラにも騎士団所有物の印が入ってますし。扉にも、文様に紛れてですけど、刻印されてましたし」
 不審な色を残したまま、ヴェロナは眉根を寄せた。そうして、アリアの言葉を確かめるように、カンテラを手にとって眺めやる。それでもまだ某かの疑惑が晴れないのか、ヴェロナは一旦外に出て、扉を検めたようだった。
「――確かに、騎士団のものらしいですけど」
 渋々、といった呈で認めたヴェロナの背に、別の声が掛かる。
「それがどうかしたか?」
「ぎゃっ!」
 乙女らしからぬ声を上げ、ヴェロナは文字通り、飛び上がって身を竦ませた。その過敏な反応に目を丸くしつつ、アリアは戸口へと目を向ける。立っていたのは、勿論アッシュであった。
「悪い、待たせ――」
「この、破廉恥男!」
「――は?」
「なんて場所に、呼び出しますの!? それとも、下心でもおありなのかしら!?」
 いきなりのように捲し立てたヴェロナに、目を丸くしたのはアッシュだけではない。アリアもまた、突然のヴェロナの変貌に、驚きを通り越して呆れさえ覚えていた。


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