[]  [目次]  []



 何が彼女をそう変えたのかは判らないが、とりあえず、アッシュを恐れていたのではなかったかと、それについて突っ込みたい。それだけ怒鳴ることが出来れば、充分だろう。
 現れて間をおかず、知人とすら呼べない年下の少女に怒鳴られたアッシュの方はというと、怒り返すでもなく嗜めるでもなく、数秒、考え込むように首を傾げただけであった。売り言葉に買い言葉、もしくは逆ギレという文字は、彼の辞書には存在しないのかもしれない。
「こんな怪しげな場所に――」
「ああ、なるほど」
 合点がいったといったように、ひとつ頷いてアッシュはヴェロナを見遣る。
「悪い。騎士団の奴らには、注意しておく」
「……」
「そういうつもりはないし、本来そういう使われ方をする場所じゃない。王都が敵襲にあった場合の集合場所や密談場所というのが、本来の使われ方だ。信用できないなら、場所を変えよう」
 淡々と、抑揚の少ない声には、動揺の欠片もない。真顔かつ事務的な、冷静極まりない対応は、一種の興奮状態にあったヴェロナは我に返らせたようだった。何ごとか言いかけた口は結局言葉を発せぬまま、目を逸らせて唇を噛む。
 遣り取りを黙って聞いていたアリアは、そこでようやく、仲裁するようにふたりの間に割り込んだ。
「よ、よく判らないけど、とりあえず、ここでいいんですよね……?」
「俺は構わんが」
「……」
 何とも言えない微妙な表情で、アリアはヴェロナを見遣る。つられたように視線を向けたアッシュの目には、別段不快な色はなかったが、ヴェロナの方はどうにも居たたまれないようだった。
 しばし沈黙の後、両頬に手を当てて、長々とため息を吐く。
「私ったら……すぐにカッとなってしまって……」
 自己嫌悪なのは判るが、原因が判らないアリアには、フォローの入れようもない。
「申し訳ありません。……前も、同じようなことで失礼をしてしまいまして」
「それはいい。どっちだ?」
 ――場所を移すのかどうか、ということだろう。
 語尾を切るようなアッシュの平坦な声に、アリアは無言で天を仰いだ。個人の悔恨よりも本題に移りたい、その気持ちは判らないでもないが、落ち込んでいるヴェロナには、さすがに厳しい切り捨て方だった。ある意味容赦のない言葉に、ヴェロナの肩ははっきりと落ちている。
 苦笑を押し隠しつつ、アリアはわざと明るい声を上げた。
「ええと、今から場所を移すのも時間ないですし、その、とりあえず、座りませんか?」
「必要ない」
「……」
「すぐ、済む」
 アッシュが幾分急いている原因は、アリアには判っている。だがヴェロナには、ただ、用件だけをさっさと済ませてしまいたいが故に、落ち着く気さえないと捉えられているだろう。
(駄目だ、こりゃ……)
 根本的に、合わないのだ。魔法院ではそれなりにダラダラと過ごすこともあるアッシュだが、基本的には目的に必要としない装飾を嫌い、省略する傾向にある。対してヴェロナは、まさにその、上流階級の女の職場、装飾の海で泳いでいるような場所で日々を過ごす。互いに明確な用件でもない限り、ようするに、世間話のレベルではすれ違いしか生まれないだろう。
 無意識に、アリアは額を指で押さえた。状況に、頭痛を感じる。――だが、今は、ふたりの性格を分析している場合ではない。
 この場は自分が仕切らねば大変なことになる、とアリアは腹に力を込め、両手に拳を作った。
「ヴェロナさん」
 アッシュの方は、すべきことを判っている。促すのならヴェロナの方だと、アリアは俯く少女に呼びかけた。その声に救いでも捜そうとするように、ヴェロナがちらりと視線を上げる。
「あれから、アッシュとちょっと話したんですけど」
「……」
「なんて言うか、ちょっと私もヴェロナさんも、誤解してたみたいですよ」
「誤解、ですか?」
 眉根を寄せて、ヴェロナはアリアに目を向けた。殊更に笑いながら頷き、アリアはアッシュに向き直る。
「ですよね、アッシュ」
「誤解と言うよりは、思いこみだがな」
「……どういう、ことですか?」
「それは」
 一度言葉を切り、アッシュは懐に手を入れた。何気なくその動きを目で追っていたヴェロナが、そこから取り出された物を見て、小さく悲鳴を上げる。
「……アッシュ。私、小さなペーパーナイフくらいのを用意してって言いませんでした?」
「なかった」
 言い切ったアッシュに向けて、アリアは深々とため息を吐く。彼が取りだし、ヴェロナを蒼褪めさせたものは、刃渡り二〇センチ以上はある、実用一辺倒の武骨な短剣だった。無駄な装飾のないぶん、使い込まれた様子も相まって、血の幻覚すら見えてきそうな雰囲気が漂っている。
「ヘマはしない」
「当たり前です」
「玩具より、マシだろ」
「こんなことなら、私が用意すれば良かったです」
「駄目だ」
「心配無用です!」
「……え、っと、アリアさん」
 おそるおそる、といったぎこちなさで、しかし意を決したようにはっきりと、ヴェロナが口を開いた。
「その、……おふたりのおっしゃる内容が、まったく判りません」
「……」
 指摘に、アリアは誤魔化すような笑みを浮かべた。アッシュの方は当然、反応らしき反応もない。二人の様子を見比べ、ヴェロナはふとため息を吐いた。
「すみませんが、私にも判るようにおっしゃっていただけますか」
「あ、うん。ごめんなさい」
 素直に謝り、アリアは話を戻すべく、アッシュに黙ってろと目で訴える。
「その、ヴェロナさんは、アッシュの特異な体質を責めたことを後悔してるってことで、良かったですよね?」
「……はい」
「それ自体が単なる勘違いだって事を、実証しようと思ったんです」
「実証、ですか?」
「そう。あれが夢だったとか言われても、信じられないと思いますし、実際に夢でも何でもなかったことです。勘違いっていうのは、それそのものを指すんじゃなくて、『アッシュが元来ああいう体質だった』ってわけじゃなかったってことです」
「え? ――でも」
「だから、あんたが刺してみればいい」
 割り込んだ声に、ヴェロナの瞳が揺れる。余計な口を挟むなとアリアはアッシュに向けて歯を剥いたが、厚い面の皮できれいに弾かれてしまった。
 見た目そのままに重々しい短剣をヴェロナに押しつけて、アッシュは左腕の袖を捲る。筋肉質の、太い腕を前に、ヴェロナは戸惑った視線をアリアに向けた。
 だが、そんな彼女を追い詰めるように、アッシュが平坦な声で告げる。
「好きなようにしろ」
「――え、――そんな、これで、私がっ……!?」
「そう言っている」
「無理です!」
「それで刺して、傷が治らなければ、あんたは信じるんだろう?」
「え」
「刺して、一瞬で治れば、確かに俺は化け物だろうさ。確かめてみろ」
「……あ」
 言わんとしていることは判る。だが、ヴェロナの手には大きく、ずしりと重い鉄の剣は、容易に動いてくれそうにもなかった。
 無理もない、とアリアはこめかみを掻く。剣や戦いに縁のないヴェロナには、刃のどの位置を使い、どの程度の力を加えれば良いのかすら判らないに違いない。人を刺すということ自体に怯えも躊躇いもあるだろう。
 震えるヴェロナを見て、アッシュはため息を吐いたようだった。そうして、おもむろに剣を取り上げる。
「なら、見てろ」
「ちょ……!」
 アッシュの方には、何の躊躇いもない。アリアが止める間もあらば、彼は適当と言っていい軽さで剣を逆手に持ち直すと、いっそ無造作に、自分の腕を切りつけた。
「――!」
 悲鳴を呑み込むように、ヴェロナの両手が、自らの口を塞ぐ。動揺を多分に含んだ双眸が、忙しなく、男の顔と朱い雫の落ちる床を行き来した。
 皮を裂き、肉を割った剣が、机の上で鈍い音を立てる。
「や、……やり過ぎです!」
 慌てて治癒魔法を発動させようとしたアリアを反対の手で制し、アッシュは静かな目をヴェロナに向けた。
「見ろ。――傷が、塞がっているか」
 出血は、止まりかけている。おそらくは動脈を裂いたことを思えば、異様とも言える治癒速度ではあるが、傷口はまだ生々しい赤さとぬめりを帯びて、はっきりとその存在を主張していた。
「離宮では、こんな傷、一瞬で塞がっていたんだろう?」
「は……はい」
「あんたから見れば、今でも治りは早いんだろうが、魔法使いとしては、別段おかしくはない」
「……そう、なんですか?」
 この問いは、アリアに向けての言葉である。頷き、アリアはアッシュの言葉を肯定した。
「魔力の質にも依りますけど、多分、ディアナ様やギルフォードさんも、同じくらいだと思いますよ。私には大した力がありませんから、治り遅いですけど」
「でしたら、何故、あの時はあんなに早く怪我が治ったのですか?」
「知らん」
「……というか、判らないんですよね」
 すかさずフォローを入れ、アリアは、さも不思議そうに首を傾げてみせた。
「はじめに掛けられてた、魔法を使えなくする魔法だけでも、相当特殊なんです。根城になってた離宮も燃えてしまって、何も残ってないので、多分、古代の魔法の本があったんじゃないかって、推測しかできないですけど」
「ではあれは、妙な魔法を掛けられたせいで、ああなっていたということなんですか?」


[]  [目次]  []