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「普段は、せいぜいこの程度だ」
 表面は乾いてきているが、相変わらず、傷口が塞ぐ様子はない。
「常にあれだと言うなら、確かに化け物だがな」
 言葉に含まれた自嘲の微粒子に気づき、アリアは顔を顰めてアッシュを睨む。ヴェロナがいなければ、自虐的な発言について訂正を求めただろう。端から見れば、ふたりの持つ劣等感は五十歩百歩に近いのだが、アリアの方は少なくとも、アッシュの能力は魔法使いの延長線上にある、と思っている。――つまり、自分の方がより、化け物に近い、と。
 微妙な空気の流れる中、しかし当然、ふたりの思惑上の攻防に気付くはずもないヴェロナは、ほっとしたように、強ばっていた顔の力を緩めた。
「ああ、良かった……」
 まずは、アッシュが、ヴェロナの定義の中での人間となんら変わりがないという事に、安堵したのだろう。
「でも、失礼なことを申し上げたことには変わりありませんわね」
「別に」
 横から小突く肘に目を細め、アッシュは言葉を続けた。
「――気にすることはひとつもない。そうだな、例えばあんたが、自分でもおかしいと思う服を強引に着せられた挙げ句、全くの他人から道化のようだと言われたようなもんだ」
 一瞬、ヴェロナは目を丸くした。そうしてまじまじと男を見つめ、やがてはっきりと頷いた。確かに、アッシュの言葉に一理あると、そう思ったのだ。
 そのたとえ話を自分の身に当てはめてみた場合、本気で怒ったり不快になったりすることはないだろう。せいぜい、自分でもそう思うと、苦笑いするのが上限といったところか。
「そう、ですわね。……ありがとうございます。ほっとしましたわ」
「なら、いい」
「でもその腕、大丈夫ですの?」
「痛いに、決まってる」
 少しも痛そうには見えない表情で、当然のように断言する。ヴェロナは何度か瞬き、アリアは呆れたようにがくりと首を落とした。
「それならそうと、言って下さいよ!」
「納得させる前に、治してどうする」
「痛み止めの魔法くらい、掛けましたよ!」
 強引に腕を掴み、アリアは治癒魔法を口にする。本来なら、アッシュ本人が治せば済む話であるが、この日ばかりはできない理由があった。
「ちょっとは、手加減して下さいよ……」
 文句を言いつつ治療を始めたアリアに、ヴェロナは少し微笑んだようだった。そうして上着を整えると、憑きものが落ちたような表情で、改まったように二人に向き直る。
「それでは、私は戻りますわ。屋敷の門が閉まってしまいますから」
「え? ちょっと待って下さいよ。送ります」
「大丈夫です。もう少し時間もかかるでしょうし、私には、何も出来ませんから。――アッシュさん」
 呼びかけに視線を返したアッシュに、ヴェロナは幾分ぎこちない笑みを向けた。
「私の誤解のために、わざわざこの場を設けていただいて、ありがとうございました」
 言って、深々と礼をする。アッシュの方は、何も言わずに軽く会釈しただけだった。その様子に苦笑を返し、ヴェロナは扉に手を掛ける。
「ヴェロナさん」
「はい?」
「訊ねてきていただいて、嬉しかったです。また、お喋りして下さいね」
「ええ、また、レンと一緒にお伺いしますわ」
 最後ににこりと笑い、ヴェロナはその場を後にした。
 扉が静かに閉まるその瞬間までを見送り、アリアは深々とため息を吐く。
「……上手く、納得してもらえたみたいです、よね?」
「でなきゃ、困る、だろ?」
 問い返され、アリアは口を尖らせる。綺麗に傷口の塞がった腕を軽く叩き、彼女はじっとりとした目でアッシュを睨みつけた。
「ビクビクされて、困るのは私じゃありません」
「俺だって、別に怯えられたところで、どうということもない。……でも、そうだな。苦にならないというなら、またやるか? 短期集中型魔法実践訓練」
 ぼそぼそとして抑揚のない、しかし、明らかに面白がっていると判る言葉に、アリアは口元を引き攣らせた。脳裏に、昨日の悪夢が蘇る。
 ヴェロナの目撃したことを「その場限りの誤解」として納得させるために、アッシュの求めてきた協力依頼内容は、まさに彼の言葉通りのものだった。短期、具体的に言えば、わずか半日ほどの間に、体の限界を何度も超えるほどの魔法訓練である。
 何故それをアリアがしなければならなかったかについては、説明に難くない。要するに、アッシュの中の魔力を極限まで消費し、体の治癒に回す魔力をなくす為に、大前提となる作業なのである。自身で消費するよりも、アリアに奪い取らせた方が確実で早いと、――吸収させては魔法を教えると称して消費させ、減ればまた吸収させ、と延々と繰り返したのだ。
 魔法を使えば、魔力を消費するだけでなく、精神的な疲労も生じる。代償、というより、体の維持ができなくなるほどに魔力を消費しないよう、体に自然と働いている防御機能なのだろう。アリアの場合、アッシュの魔力を吸収することにより、おおかたの疲労は解消されるのだが、回数をこなすとすればまた別の話となる。
 おまけに多くの魔法式を覚えることを要求された日には――アリアにかかったストレスは、推して知るべし、といったところか。自分から相談した話でなければ、途中で投げ出していたに違いない。
「長期ゆっくり型魔法講座なら、是非参加したいところですが」
 遠回しの拒否に、アッシュは肩を竦めたようだった。
 複雑で芸の細かい魔法については、魔法院の面子に一日の長がある。しかし、実践、特に戦闘に使用するものに関しては、アッシュの教えてくれるものが一番洗練されていた。そのあたりはさすがに、切実な必要性を持って覚え、開発してきた経歴がものを言うのだろう。
「まぁでも、多少強引でしたけど、上手くいって良かったです」
 帰途に就くべく、騎士団の施設を後にしたところで、アリアはまとめるようにそう評価した。
「でも、今、魔力ってどれくらいあるんですか?」
「あんたほど正確に把握出来るワケじゃないが、多分、一割くらいだろ」
「しんどくないんですか?」
「ちょっと、集中力に欠けるな。それに、疲れやすい」
「どのくらいで戻りそうですか?」
「どうだろうな。ここまで減ったことがない」
 戦場でどれだけ無茶苦茶に魔法を使ったときでも、せいぜい許容量の三割消費するのが関の山だった、とのことである。強い魔法を使えば消費は早いが、アッシュの魔力の質を考えれば、おいそれと強力な魔法を使うわけにもいかないのだろう。狙った効果の何倍にも威力がふくれあがってしまうのだ。
 それは、彼の魔法を吸収して使っているアリアにも同じ事が言えるが、長く止める内に変質してしまうのか、吸収して数時間もすれば、直後ほどに効果は引き出せなくなっている。もっとも、多少劣化したところで、平均的な魔法使いよりは随分と良質であることに変わりないのだが。
 月明かりに白い息を吐きながら、アリアは少し考えて口を開いた。
「じゃぁ、しばらくは、節約してますね。足りてきたなって思ったら、また魔法院に来て下さい」
 アッシュに魔力が充足するまでは、まさか普段と同じ調子で吸い貰うわけにはいかない。幸い、まだ満杯に近いほどに満ちている。不用意な実験を行わなければ、何週間と持つだろう。
「別に、気にしなくていい」
「でも、さすがにそれは、アッシュには負担です。そうまでして、満たしておきたいわけじゃありませんから、今度会うときは、私が遠慮しなくていいくらい、溜めておいてください」
「――そうか」
 頷いて、アッシュはズボンのポケットから細い鎖のようなものを取りだした。
「なら、これをやる」
 反射的に受け取ったアリアは、驚いて目を丸くした。掌に収まった銀色の鎖、否、それに付けられている小さな薄い板状のものから、震えるほどの強い魔力が伝わってくる。
「魔法鉱石、ですか?」
「ああ。団長に持たされたやつだ。なかなか、質が良い。緊急時には、そこから取ればいい」
「でも、貴重な品じゃないんですか?」
「俺が持っていても、持ち腐れだ。なら、必要な奴が持った方が良い。全部魔力を取った場合は、また俺に渡してくれれば、補充する」
 丁度親指ほどの大きさの板には、何も描かれていない。光沢のある表面は不可思議な色をしているが、後は、厚さ1、2ミリほどの側面に不規則な筋が入っているだけの単純な形状である。鎖の長さからするとおそらくは、本来ペンダントとして使用するものなのだろう。それを無造作にポケットに突っ込んでいるあたりは、どうにもアッシュらしい。
 常に首にかけておけば、確かに緊急用の魔力供給品として、力強い味方となる。男物らしく鎖は少し長いが、その方が反対に服の中に隠れていいだろう。
「ありがとうございます。無くさないようにします」
「ああ」
 気のなさそうな声に、アリアは苦笑した。アッシュの物欲の薄さを思えば、その内貸したこと自体を忘れてしまう確率が高そうである。
 しばらく、断続的にとりとめのない話をしながら、第二区画を降り進む。大通りから少し逸れた小道を通っているためか、すれ違う人も疎らであった。ここ数日の冷え込みが、影響していることもあるだろう。
 上空を見上げれば、灰色の雲が次々に形を変えて流れていた。この様子では、明日には雪が降っているかも知れない。その予測に引き摺られたか、不意に寒さを感じたアリアは、一度大きく背中を震わせた。
 直後、頭の上から被せられたものがある。――毛織りの外套だ。
 もがき、頭から肩へそれを落としたアリアは、乱れた髪を掻き上げつつ、頭一つ分高い位置を見上げた。
「心配しなくても、ちゃんと洗ってる」
「や、そういう意味じゃないんですけど」
 外套は厚く、もともと人肌に温まっていたこともあり、一気に冷気は遮断された。しかし、隣を見るに、視覚的には寒さがどうにも増した気がする。騎士団の服は、機能性は高いが、動くことを前提で作られているため、あまり保温性は高くない。だからこそ、必要性のある外套であるはずだが――
「寒い、ですよね?」
「まぁ、多少は」
「じゃぁ、返しますよ、これ」
「あんたが寒そうにしてる方が、困る」
 どういう理屈だ、と突っ込みたいのはやまやまであるが、どう切り込んだところで返品は却下されるのは目に見えている。こうなれば、とりあえず早く家に着くのが一番手っ取り早いというものだろう。
 そこまで考え、アリアははた、と足を止めた。
「どうした?」
「アッシュは、騎士団の寮に住んでるんですよね?」
「いや、第三区画に借りてる。まぁ、騎士団施設の近くだが」


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