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 言ってみれば、百人規模の小競り合いに、敢えて精鋭を揃えるような大げさな真似はできないということだ。これがもう少し――騎士団長や領主を必要とする問題であれば、互いの軍の威信をかけた面子を前線に出してくるだろう。無論その場合、同じ国民同士で争い、不穏の種をまいたとして、国王から叱責を受け、他領主から咎められる事となる。
 遠く、見えるはずもないセーリカの陣を睨みつけるように、フェルハーンは暗闇の奥に目を凝らした。
「お疲れではありませんか?」
 背後に控えていたヒュブラが、言外に休めと勧めてくるのを黙殺して、フェルハーンは帯にかけた剣の柄を握る。実戦は初めてではないが、彼はいつもこうだった。気が昂ぶって、何をしようと休むことが出来ない。極度の緊張がそうさせているのかと言われれば、否、と言わざるを得ない。精神的にはむしろ落ち着いている。ただ、どうしようもなくざわざわと、胸の奥から迫り上がってくるものがあるのだ。
(――早く、戦いたい)
 戦闘狂ではなく、暴力に恃む性格でもない。だが今は、何も考えず、向かってくる何かを真正面から叩きのめしたかった。理屈と理由をつけて体面を取り繕いながら、根回しの上に慎重を重ねて偽善の言葉を吐き、相手の裏を読みながら気付かれぬように切り崩していく、――乱戦の内で剣を振るう間だけは、そんな謀と無縁でいられるのだ。
 それ故にフェルハーンは、王子でありながら最前線で戦い続ける。命を賭けた息抜き、そう自分で評し、悪趣味だと自覚はしていても改める気はおきなかった。
「殿下」
 闇に目を凝らすフェルハーンの背を、低い声が叩く。
「しばし、ここでお待ちを」
「何か、あったのか?」
 訝しげに眉根を寄せ、声をかけたヒュブラではなく、いつの間にか近くに寄っていた偵察の兵に目を向ける。闇に紛れることを目的とした服を纏い、濡れた地面に膝をつく男は、その気配を察していっそう深く頭を垂れた。
「東の方で少々小競り合いが……」
「規模は」
「二〇名ほど」
「応援は」
「セーリカが動く様子はなさそうです」
 つまり、エルスランツ勢も競り合いの行方を見守るという方向である。今回起きた、調停のもつれからくる戦いは、がむしゃらに敵を叩けばよいというものではない。己が正しいことを主張しつつ、最低限の被害で優位に立ちつつ、最終的には相手の抵抗を自ら折らせるのが目的なのだ。子供をあしらうように、撫でつつ宥めつつ、常に冷静な対応で負けを認めさせる、他の領地に対する対外的なアピールが必要となる。
 面倒な、と舌打ちを隠しながら、フェルハーンは緩く作った拳に力を込めた。
「それで、ヒュブラが状況を見に行くと?」
「セーリカの方の部隊に魔法使いが居た様子で、少々厄介な事態になっております」
「厄介?」
「濃霧が発生しております。周辺は目の前にした自分の手もろくに見えぬ有様、詳細は判りませんが、敵味方共に混乱した状況と判断されます」
「解除魔法は、魔法の発生している地点をつきとめる必要がありますので、少々時間をいただきたく」
「待て。それなら、私が行けば早いのではないか?」
「そういうわけには参りません。御身は何に置いても護らねばなりません。通常の戦場であればともかく、そのような不確かな場所にお連れすることは私の任務権限の範囲で却下させていただきます」
 嫌なら、この地から離れた安全圏に下がらせる、そう言外に脅しを込めて、しかし、あくまで冷静な顔は崩さずにヒュブラはフェルハーンを見遣る。身分という人の決めた位がいくら上であろうと、フェルハーンに実際の権限は殆どない。あくまで、相手の方が顔を立てて遜ってくれるからこその力なのだ。正統な、実力を持って得た位とその権利を前面に出された以上、フェルハーンに対抗する術はなかった。
 目を眇め、ただ見つめ返す。睨む一歩手前のそれは、ささやかな抵抗だったのかも知れない。
「――判った」
 気をつけろとも、頑張れとも言わず、フェルハーンは踵を返す。
 数歩離れた後ろで、恭しく頭を下げた男を思い、彼は今度こそ、短く舌を打った。

 *

 濃霧の中、少年の目は白い世界に迷い、天地もない感覚に惑う。だが、彼にとって問題なのは、視界が遮られていることではなかった。明らかに魔法の産物であると判る霧は濃密な魔力を有しており、もともと、魔力に酔いやすい少年の精神を苛んでくる。
 時折、どこかで悲鳴と叫びと、金属の打ち鳴らされる高い音が響く。重い大気にくぐもったそれは、ひどく遠い世界で起こっていると錯覚を引き起こす。だがそれは実際には、わずか数十メートル先での出来事なのだ。そう自覚すれば、緊張はいやが上にも高まった。
(落ち着け)
 言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。あまりといえばあまりの湿度に、飲み込む息が重い。
 敵方にいるという、腕の良い魔法使いが力の入れ方を間違ったのか、それが目的だったのかは判らない。だが、この状態では戦闘も何もないだろう。考え、魔法の効果範囲から抜け出ることを目標に、少年は支点を定めて慎重に歩を進めた。方向すらもつかめない為に、敵陣へ出るという可能性もある。
(その時は、……いや、考えても仕方ない)
 濃い魔力に浸っている方が、少年には毒なのだ。強固な結界さえ張っておけば、突然の攻撃にもある程度は対処できるという拠り所もある。
 濡れた手で額から落ちる水滴を拭い取り、少年は僅かに目を伏せた。
 レダンの前で虚勢は張ったものの、今まさに、彼の心臓は、緊張と焦りにひどく高鳴っている。
 このような状況は想定していなかった、などと言えば、それは彼の甘さと読みの浅さを露呈するものにしかならないだろう。何が起こってもおかしくないと、お前はまだ未熟なのだと、強く言われたそれに反駁した己を、今更ながらにひどく恥じた。
 自分の力を過信していたわけではない。だが今、髪からしたたるほどの水滴が当たりに充満しているというのに、少年の喉は、からからに干上がっていた。
(……まずい)
 体の中の魔力が、精神の不安定に引きずられ、流れを乱している。成長途中の少年の体は、興奮により魔力を過剰に生産するという子供特有の問題点を、いまだ色濃く残していた。
 通常の魔法使いであれば、せいぜい、癇癪を起こしたついでに魔法を一瞬暴発させる程度の、一過性のものに過ぎない。しかし、少年は特殊に過ぎた。
 魔力不均衡症候群。極めて不安定な体質は、一過性のものをそれで済まさせない危険をはらんでいた。そしてそれは、力に怯え、焦るほどに過剰に膨れあがっていく。早く出よう、そう思い詰め、少年は、草を踏み荒らして先を進む。
 ――だが、そんな彼を待ち受けていたのは、非情な巡り合わせであった。
「子供、か」
 不意に、低い嘲笑が耳を掠める。背中に、硬い刃物の感触。厚い布地を裂き、鋭い感触が皮膚を滑る。
「死ねや」
「……!」
 一瞬の、恐怖。そしてそれは、その後の全てを決定した。
 咄嗟に唱えた魔法式、霧の中に、火花が散る。鮮やかな閃光は、雷雲の中で、今まさに生まれる神鳴を体現したかのようだった。
 過剰な反応、制御しきれぬ魔力。強烈な熱が、刃の先、握った手を腕を体幹を穿ち、貫き、――人を、火柱へと変容させる。叫びとも、悲鳴とも付かぬ断末魔が、少年の耳を引き裂いて鼓膜へと反響した。
 燻る煙と、蛋白の焼ける、独特の臭気。
 それは少年の精神を、一瞬にして恐慌の域にまで突き上げた。

 *

 フェルハーンが一度後方に下がってしばらく、事態には何の変化も起こらなかった。互いに、相手が仕掛けてくるのを待っているのだ。後手に回れば、自衛手段だったという言い訳が立つ。
(そこまで体面を護りたいなら、そもそも戦いに持ち込まねば良いものを)
 暴れられる場を前にして、お預けを喰らった状態のフェルハーンには、時間という名の苛立ちが積もりつつある。そうして、そうなるたびに叔父の毅然として立つ姿を思い出し、ジレンマに胸を重くするのだ。あのようになりたいと思いつつも、若さ故か、気の短さが前面に出てしまう。
 一般兵と同じ携帯食を口にした後、フェルハーンは再び前線へと足を向けた。張り詰めた空気は同じだったが、積み重なった疲労に、騎士達の口は随分と重くなっている。
「セーリカの動きはどうだ?」
 近くの中堅騎士を掴まえて訊ねるも、返答に芳しいものはなかった。現状維持、の状態が続いている。
 まずいな、とフェルハーンは独りごちた。エルスランツ騎士団は機動力に関して定評があるものの、膠着状態への耐性は、セーリカに比べれば明らかに劣っているのだ。忍耐力に欠けるというわけではなく、即断即決、つまり、時機を見たならすぐに行動に移すという気質が裏目に出るのだ。のらりくらりと躱し、裏からじわじわと責める手を持つセーリカとは、領民の特性からして相容れないとも言える。
(主義主張を方々に撒いた後で、こちらから攻めるか?)
 否、と首を横に振る。今まで散々主張してきたことを再度繰り返しても、相手になんら痛痒を与えることは出来ない。戦端を開く口実にもならないだろう。
(だとすれば、直接敵陣を混乱させるか――……)
 唇を指でなぞり、諸悪の根源たる盗賊を脳裏に描く。彼らはセーリカ領で捕らえられてはいるが、エルスランツでの暴挙を否認し、逆にセーリカに保護を求めている。村を荒らした証拠を揃えているエルスランツには片腹痛い主張であり、どちらにせよ、この戦が終結した折りには、セーリカの方で処断されることとなるだろう。彼らの行く末などに興味はないフェルハーンであったが、それならそれで、彼らにも使い道があるというものだ。
(秘密裏に、セーリカの知らぬ間に奴らのひとりでも、殺すことは出来ないか……)
 なればさすがに、セーリカの方も無視することは出来ないだろう。
 中隊の隊長、つまりこの部隊の指揮官へ提案すべく、フェルハーンは陣地内を足早に巡り歩いた。動員した騎士は百名とはいえ、警戒範囲はそれなりに広い。後方の天幕にいなかった以上、戦線を見回っていると考えるのが妥当だろう。
 その途中、フェルハーンは巡らせた視界の中に、見覚えのある顔を見つけて足を止めた。
(……昼の)
 レダン・フェイツとヒュブラが紹介した男である。だが、今の彼は好々爺といった柔和な表情を潜め、緊張の走る目を正面に向けていた。距離を空けてすれ違ったフェルハーンには気付く様子もなく、足早に去っていく。
 周囲の兵の様子に変化はない。レダンの緊張は、彼自身にのみ適応する理由に因るものだ。


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