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(養子とやらに何かあったのか?)
 考え、フェルハーンはすぐに頭振った。個人的な問題が発生していたのだとしても、レダンも今は只の一般市民、私的な理由で戦闘区域に留まっているだけの者に、軍がとやかく言う権限はない。逆を言えば、命令系統に入らない人間を構っている余裕は、今の軍にはないということだ。
 再び歩き始めたフェルハーンは数分後、ようやく、目的とする人物を目に止めた。
「中隊長、少しいいか?」
 直属の部下と小会議よろしく、簡易テーブルの前で話し合っていた指揮官は、フェルハーンの呼びかけに目を見開いた。元凶とは言え、本来、陣の奥深く安全圏に座っていなくてはならない王子が、突然、いつ戦場になってもおかしくない場所に現れたのだ。指揮官とはいえ、本来はたかだか中隊長、指揮系統外の任務で護衛に付いている副団長の、更に護衛対象に比べれば、実際の権限など塵に近いといっても過言ではない。
 心情としてはフェルハーンの意に沿うものがあり、犬猿の仲であるセーリカと事を構えるにやぶさかでないとはいえ、さすがに一国の王子を客として内に置くことは、精神的な負担が大きいのだろう。新兵などは、副団長であるヒュブラの方が指揮官だと思い、指示系統が些か混乱している事実もある。
 困惑の色を隠しきれぬまま、中隊長は深々と頭を垂れた。
「殿下、如何なさいました?」
「いや、状況の確認と、少し確かめたいことがあったんだ。話し合いの最中なら、また、改めるが」
 これは、フェルハーンの本心である。自分の手で得たわけでもない権力を、戦場という現場で振りかざす気は全くない。だが同時に、その気持ちが汲み取られることがないということも、嫌というほど把握していた。
 案の定、今まさに議論を交わしていた最中であることを放り、中隊長はフェルハーンに場を譲るべく後退る。
「殿下をお待たせするほどのものはございません。それよりも、確かめたいこととは、どういったものでしょうか」
「いや、その前に少し、今後の展開を考えているなら教えて欲しいのだが」
「今後の、でございますか? ならば丁度良い時にお越しいただいたものです」
 僅かに頬の力を緩め、先ほどまで向き合っていた部下と顔を見合わせる。テーブルの上に乱雑に置かれた地図や小物を見て、フェルハーンもまた頷いた。
「奇襲をかける気だったのか?」
「と、言うほどのものではありません。さすがに、総勢百人ほどでは、総攻撃と同じ意味になってしまいますから。ただ、セーリカの魔法使いが放った霧の魔法、ああいった攪乱を向こうにも与えてやろうかと画策していた最中でして……」
「しかし、あの異常な濃霧は、明らかに意図したものではあるまい? 今まだヒュブラが、解除を試みに行っているはずだが……。そういえば、まだ戻っては来ていないのか?」
「副団長は先ほど一旦お戻りに。しかし、状況は依然かんばしくない様子で、休憩後にまた向かわれるとおっしゃいました」
「ヒュブラにも、容易に解けない魔法があるのか……」
 呟き、緩く首を振る。おそらくは、何らかの異常が生じ、濃霧の魔法を生み出した魔法使いにも制御できない事態となっているのだろう。複数の要素が絡み合った、魔法の暴走状態とも言える。霧という、発生源の判別し辛い魔法であることも痛い。
(やはり、私が行くか……?)
 フェルハーンの、眉間の皺に気付いたのだろう。中隊長は察したように、早口で彼の思考を断ち切った。
「副団長は、殿下をけして向かわせるなと厳命なさいました」
「……たまには、反発してみようという気概はないのか?」
「副団長は素晴らしい指揮官です。反発する要素はございません」
 肩を竦め、フェルハーンは降参の意を示す。
「その代わりに、と申しては何ですが、……次の作戦に、殿下もご参加いただけますでしょうか」
「うん? どういうものだい?」
「方法は単純ですが、効果は大きいと思います」
 部下と共に笑う中隊長。緊張の中にどこか可笑しさを含んだ表情に、フェルハーンは演技ではなく興味を示した。誰が言うでもなく、自然に三人がテーブルを囲み、地図に目を落とす。
「まずは、セーリカの陣ですが……」

 *

 だが、その作戦は、永遠に実行されることなく沈黙の中に埋もれることとなった。低い雨雲の下、霧雨に煙る視界が晴れる前、より濃密な白い闇の中で、危険は既に手の施しようのないところまで膨張していたのである。
「鎮まれ! 落ち着いて、大丈夫 ここに居る、大丈夫だから……!」
 一寸先も見えぬ濃い霧を纏った少年に向かい、レダンは声を張り上げる。
「落ち着け、……いつものように、そう、力の流れを感じ取りなさい」
「……レダ、ン」
 微かな、しかしはっきりと意志を持った声に、レダンは胸をなで下ろす。だが、彼は少年の事に集中するあまり、ひとつのことを完全に忘れていた。
 重い大気を切り裂き、一本の矢が背を穿つ。――異常な事態でありながら、しかし、ここはあくまで戦闘区域であった。張り上げた声が、敵に所在を示してしまったのだろう。
 呻く声に、苦痛が混じる。それはけして、致命傷となるものではなかったが、朧な視界は、正確な判断を削ぐに充分な条件だった。
「や……」
 脇腹を押さえて蹲る、養父。自分を唯一抑えることの出来る魔法の師。彼の体が崩れ落ちる光景に、少年の理性は完全に焼き切れた。
「あああああああああっ……!!」
 深い霧の中にも響き渡る、絶叫。
 ――未明。にらみ合いの続く戦場。そして、兵たちの精神的な緊張と肉体的な疲労がピークに達する直前。
 突如、濁った藍と灰の空を、灼熱の朱が、駆け抜けるように切り裂いた。

 *

「……っ、なんだ、これは……!?」
 見開いた双眸に映る、朱金の渦。
「魔法か、いや、そんな規模じゃ……」
 自分が声に出して呟いているとも気付かず、フェルハーンは震える手で剣の柄を握りしめた。鞘とベルトの金属が擦れ、小刻みな音が鳴る。少なくとも一方的な恐怖ではなかったが、圧倒的な力に本能が危険を感じたのだろう。怖れと不安と驚愕が、目に映るものを否定しようと、思考回路に紗をかける。
 周囲はもはや、戦場ですらなかった。統制など取れてもいなければ、取るものもいない。あまりと言えばあまりの展開に、誰もが我を忘れて逃げ惑うのみ。幾つもの修羅場をくぐり抜けてきたであろう年配の騎士も、恐慌状態に陥っていた。
 指揮は、と思い、フェルハーンは右を左を見回した。だが、映るのは一面の炎。うねり、もがき、不規則な線を描きながら確実に広がっていく。霧雨が絶えたわけではない。それを地上に届けぬままに蒸発させてしまうほどの熱が、天すらを襲っているのだ。
「殿下!」
 掠れた、悲鳴に近い声に、フェルハーンは慌ててその方を振り返った。
「ご無事で……!」
「ヒュブラ、これは……、何が起こったんだ?」
「判りません。ですが、危険なのは確かです」
 強ばった顔に、いつもの余裕はない。しかし、それはフェルハーンも同じだった。
 夜に話し合った、作戦の遂行。その為に陣より離れて西の後方に下がっていたが故に、偶然難を逃れたに過ぎない。セーリカ軍を前に見据える最前線に居たのなら、今頃、とうに炎の中に焼かれていただろう。その方面に居たはずのヒュブラが無事であったのは、彼が人並み外れて卓越した魔法使いであったからに過ぎない。
「誰かが火を放ったのか?」
「いえ、これは、自然の火ではありません。魔法が強く関与しています。でなければ、充分に湿っていた木や草が、ここまで一気に燃えることはありません。たとえ、油を放ったのだとしても、範囲が広すぎます」
「そうか、……そうだな。しかしそうだとすると、その源をどうにかする必要があるだろう。逃げるにしても、馬はない。この勢いなら、炎の方が私たちを呑み込む方が早い」
「まさか。いかな魔法使いも、このような大規模な魔法、あと幾らも続けられるわけがありません」
 有り得ない、そう言いたげに首を横に振るヒュブラであったが、フェルハーンの目は、あいにくと違う映像を結んでいた。
 いっかな、勢いを衰えさせる兆しすら見えない、爆発の瞬間を繰り返し見ているような、魔力の噴出。巡る、痛いほどに鮮やかな金の軌跡。
 畏怖、恐怖、驚愕、そして憧憬、フェルハーンの胸の内には、いくつもの感情が荒れ狂っている。原初の、生命の息吹はかくもこのようではなかったか、と答えのでない想像を掻きたてられ、彼は知らず、一歩、前に踏み出した。
「殿下!」
 慌てて掴み来る手を振り払い、フェルハーンは今度こそ、自分の意思で炎の方へと向き直る。それを見て、ヒュブラは、ため息を吐いたようだった。
「生存者は?」
「私の居た辺りは……」
 俯き、首を横に振る。
「……発生源を、確かめに参りましょう。でなくば、殿下の仰るとおり、今は助かっているこの近辺の者も、逃げられずに炎に巻かれるでしょう。お伴いたします。いくら契約した魔物が殿下をお守りするとはいえ、これほどの炎に対抗しうる者は居りますまい」
「お前の魔法があれば、百人力だな」
 もっともな指摘に、フェルハーンは苦笑を返す。周囲は人の目に見えぬ魔物に結界を張って貰っているが、魔物にも属性というものがある。今、契約している魔物では、炎の中心で逆巻いている魔力には、到底太刀打ち出来ないだろう。
 魔物に下がるように伝え、フェルハーンはヒュブラに向き直った。ヒュブラが心得たように頷き、魔法式を口にする。その結界が身を覆うまでの数秒、押し寄せた熱風の勢いに、焦がすような熱さに、フェルハーンは思わず息を詰めた。
「ご案内いたします」
 自らも魔法をかけ直したヒュブラが、元来た方へと踵を返す。その躊躇いのなさに、後を追いつつ、フェルハーンは眉根を寄せた。
「もしかして、お前、発生源を知っているのか?」
「……推測、ではございますが」
「どういうことだ?」
「濃霧の発生地点へ向かったすぐ後、でしょうか。レダンと会いました。昼に紹介しました、魔法使いです」
「ああ、覚えている。私も、見たが……、いやに真剣な顔で走っていたな」
「本当かどうかはわかりません。ただ、濃霧の発生原因は、セーリカの魔法使いだが、中で起こっている異常事態は、自分の養子である少年が引き起こしたのだ、と申しておりました」
「中の、異常事態?」


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