[]  [目次]  [



 1.

 冷たさを帯びてきた風が、通りの看板を小さく揺らしている。
 澄んだ空気の中、街の人々が活動し始める早朝、ひとりの男が狭い路地を走り回っていた。こけつまろびつ、といった表現がこれほど合う進み方もない。
「ええと、ここじゃなくて、……あれ、あっち、……じゃなくて」
 すれ違う者ほぼ全員が不審な目を向けていることにも気付いた様子はなく、小汚い紙と標識を交互に見遣りながらぶつぶつと呟いている。
「だからここはこうで、ええと、……、……あったぁ!」
 ようやく目的の場所を見つけたのだろう。耳にした者がぎよっとして立ち止まるような素っ頓狂な声を上げた後で、彼はそれが単なる義務であるかのように扉を叩き、そして返事も待たずに大きく押し開けた。
「遅れて申し訳ありませんでしたぁ!」
 大概の大音量に、窓ガラスまでが音を立てて揺れる。
「今日から配属になりました、ラウル・アルバです、よろしくお願いしまっす!」
 そうして、油差しが必要な機械のようにぎこちなく、且つ急角度で腰を折った男は、そのままの姿勢でピタリと動きを止めた。
 しん、と静まりかえった室内。数秒、瞬き10回ほどの後に、初めに音を立てたのは、机の上の紙だった。
 やがて、呻くような、絞り出すような声がその上に落ちる。
「……聞いてねぇぞ、んなもん」

 *

 大陸南西部には、安寧の国がある。北の隣国との境には峻険な山、そこから始まる河は平野部で大河となり地を潤し、やがて穏やかな海へとたどり着く。肥沃な大地に海の恩恵にと非常に自然に恵まれた土地であり、更にこの数百年に渡り国が対応するレベルの災害が起こっていないことも、その名を人々の口に上らせる一因となっているのだろう。
 そんなハーロウ王国は、かつて幾多の英雄と驚異的な運に守られて悉く外敵を退けてきた強国だ。地理的な問題もあり、鎖国に近い状態にはあるものの、率先して自らが他を攻めることもなく、平和の内に繁栄を続けている。
「列強の国から守ってきた国軍、中でも、始祖が作った国王直属の特別機動隊は当時から花形として憧れの的でして、僕、……じゃなくて私も非常に憧れておりました!」
「ああ、そうか」
「希望叶って配属されました本日より、誠心誠意勤めさせていただきます!」
「いいから、声を小さくして、まず座れ」
 はぁ、と聞こえよがしなため息まで聞こえる。直立不動のまま挨拶を続けていたラウルは、目の前にいるやけに荒んだ印象の上官を見つめ、眉をハの字に下げた。
「まことに不勉強ながら、田舎から出てきて初めての配属場所であり、ぼ、私の態度に」
「座れっつーてんだよ」
「は、はひぃ!」
 遂に噛んでしまったラウルは、顔色を朱く蒼くと忙しなく変えながら倒れ込むように椅子へと腰を下ろす。途端、バランスの取れていない脚が乱暴な扱いに抗議するようにガタガタと不安定に床を鳴らした。
「別に取って喰おうってわけじゃねぇ。力を抜け」
「ははははい」
「……ったく」
 呆れたようにガリガリと頭を掻く上官を目の前に、くつろぐことなどできるだろうか。安物の椅子の上で完全に固まってしまったラウルは、首を引っ込めながら口を真一文字に引き結び、伺うように上官を見上げた。
 事前に得た情報によれば、上官の名前はアルベルト・カナレス。33歳になる黒髪の大男と聞いていたが、実物はどちらかと言えば細身に見える。無精髭と眉間の皺、睨むような目つきが強面という印象に押し上げているが、もともとの造形自体はハンサムと言っても良い顔立ちだろう。むろん、性格が顔に出るというとすれば、この分析はあまりありがたくないものとなる。
 じっと観察する視線を感じてか、アルベルトは更に眉間の皺を深くしたようだった。ラウルのほうから話しかけられる雰囲気ではなく、ただ固唾を呑んで言葉を待つ。
 やがて、アルベルトが深々と息を吐き出した。
「ラウルと言ったな。今日から配属ってのは本当か?」
「は、はい。辞令がここに」
 幾分震えた声ながらはっきりと返事したラウルは、すぐ取り出せる位置に仕舞っていた封書を取り出した。それを受け取り、彼の顔を一瞥したアルベルトは無造作に中の紙を取り出して真っ直ぐに伸ばす。
 名前、年齢に始まり出身地や参加戦闘経験まで書かれた履歴書のようなものだが、最後には特別機動隊への編入が指示されている。そこまで一気に視線を走らせたのだろう。アルベルトは器用に片方の眉を上げて反応を示した。
「……確かにな」
「はい」
「連絡ミスか、役所の怠慢か、ああ、後者だな」
「え」
「気にすんな。よくある話だ」
 数日前に決定した人事が伝わっていないとはどういうことか。気にした様子もなくひとりで納得しているアルベルトを再び伺うように見れば、彼は気付いて舌打ちをしたようだった。
「ここが花形だったのは9年も前までの話だ。今じゃ厄介者の汚れ部署に過ぎん」
「や、厄介者? それに汚れって」
「知らねぇのか。よっぽど田舎から来たんだな? 少なくとも近隣じゃ有名な話だ。バカ直属の狗部隊だってな」
 あまりと言えばあまりな情報に、ラウルの頭にはアルベルトの言葉がぐるぐると回り続けた。
 配属された特別機動隊は国軍とも近衛隊とも指示系統のことなる、国王を指揮官とした特別な部隊であり、個人の采配で動く唯一の職業軍人の集団である。当然その特殊な命令系統から暗殺部隊と呼ばれた時代もあったが、数代前の国王が大規模な改革を行うにあたり表舞台で華々しい活躍をしたことから、見方は一変した。
 則ち、王の楯となり剣となる気高い精鋭部隊、――であったはずなのだが。
「それは、国王が賢くてなんぼの話だ。お前、陛下の噂を聞いたことないのか?」
「え、え」
「もともと末子相続で年若い王が多かったが、今のは極めつけだ。10歳で即位したもんだから、後見人の貴族どものいいなりの莫迦だそうだ」
「えーっ!?」
「本当に、知らなかったのか……」
 呆れたようにアルベルトが眉尻を下げる。恐縮したように更に縮こまり、ラウルはしどろもどろでこれまでの経緯を話した。
「いえ、――その、地元で駄目もとで試験受けて特別機動隊に入りたいって言ったら、あっという間に王都に連れてこられたので」
「あー……、そりゃそうだろうな。今、うちに来たいなんつーたら、そうなる」
「仕事内容がキツイから、ですか?」


[]  [目次]  [