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「うぐっ!」
 くぐもった悲鳴が、鈍く重い衝撃音と共に響く。男の体は一度弱々しく起き上がろうと動き、だが次の瞬間、地面へ力なく伏した。
「……え」
 呆然とした声が小さく落ちる。
「親父……」
 赤い顔が一転、数分前の父親を凌ぐほどの青さへと一瞬にして変えた顔が、その唇が、震えて声にならない音を紡ぐ。
 応える声はない。
「俺は……」
 呟き、ずりずりと後退る。そうして、小刻みに震える体を翻す。
「俺だけが楽したいんじゃねぇ。言われるままになってる方が悪いだけだ!」
 元来た道なのだろう。闇の中、躓きながらも正確に山道を下っていく。
「世の中、出し抜いた方が勝ちなだけだ……!」
 自分に言い聞かせるように呟かれた言葉は木々を抜け、暗い空へと吸い込まれていった。


 ――後。
 別の小屋に寝ていた女が背中に大けがを負った男に気付き、彼は一命を取り留めることとなる。そして驚愕の事実が広まるまでには、更に数時間の時を要するのだった。

 *

 王都の朝は早い。住民の頂点に立つ国王や貴族は宵っ張りだが、彼らを世話する者の活動はそれより遙か前に始まるからだ。
 久々の王都の空気を吸いつつ、活気ある大通りを抜け、いつものように路地へと入ったラウルは、詰め所としている建物の煙突から、一筋の煙が上がっていることに首を傾げた。
(もしかして)
 顔をほころばせたラウルは、心持ち馬を急かせて進む。
「お帰りなさい。言われた資料はまとめてありますよ」
 やはり珍しくも、イサークは詰め所で待機していたようである。馬から降り、息も荒く扉を開けたラウルは、彼と連絡を取って待つ手間が省けたことを喜びつつ、手渡されたコップから勢い良く水を呷った。馬の状態と相談しつつ最速で駆けてきた身に、冷たい感触が新鮮に染み渡る。
「ありがとうございます。それにしても、早いですね」
「早い、とは?」
「資料です。この国のことじゃないので、もう少し時間が掛かると思ったんですけど」
 素直な賞賛の言葉に照れるでも驕るでもなく、イサークはただ平静と変わらぬ笑みを浮かべただけだった。彼にとっては何でもない作業だったのか、苦労を押し隠して余裕を装うのが常になっているだけなのかはラウルには判らない。
 ただ、仕事は恐ろしく早く、しかも的確である。アルベルトとのやり取りを横で聞いて感じていたことを実感したラウルは、――改めて、イサークには逆らわないようにしようと心に決めた。尊敬と言うよりは畏敬に近い。せめて、何を考えているのか判らない微笑がなければと思うのだが、言わぬが花、というものだろう。
 イサークから視線を外し、一度咳払いをしたラウルは早速、調査の結果を彼に問うた。
「あなたがたの考えは、ほぼ合っていると思いますよ」
「そう離れているわけではないですけど、やっぱり平地とは土が違いますか?」
「あのあたりの土は、北方の山の多い国のものに近いようですね。……いえ、むしろ昔からある農耕地帯の土が異質のような気もしますが……、いえ、憶測はおいておいて、やはり北方や東方の農業を参考にした方が合っているでしょう」
「キーナは? 問題なさそうですか?」
「ええ。育つ条件も厳しくありませんし、適しているでしょうね。なかなかいい着眼点ですよ」
 この言葉を、カルロスあたりが聞けば目を丸くしただろう。実はそれほど、イサークが素直に誉めることは珍しい。だが幸か不幸かその事実を知らないラウルは、ただ照れるようにはにかんだ。
「栽培の方法はこちらです。もう少し寒くなる場所でのものですが、概ねそのまま使えると思います」
「ちょっと見せていただいてもいいですか?」
「どうぞ」
 内容を点検、というわけではない。ただ主にはアルベルトが読み、そのまま村の責任者に渡されるものだ。今を逃せば見る機会はなくなると思えば、興味がラウルを動かした。
「お茶を入れますね。座って読んでください」
「え、いえ、そこまでは」
「帰りも大変ですよ。緩急つけないと自分が倒れます。それでは意味がないでしょう?」
 イサークの言葉はいちいちもっともだ。頷き、ラウルは促されるままに腰を下ろした。頼んでいた栽培に関する資料は、目の前の机の上にある。
 すぐに手を伸ばすつもりだったラウルは、しかし、一度座り込んだことで自分が疲れていることに気付いてしまった。背もたれに力をかければ、ずるずるとそのまま滑り落ちていきそうになる。
 これでは集中して読めないな、と苦笑し、ラウルは緩く息を吐いた。そうして、体の熱が落ち着くのを待つつもりで、今まで思っていたことを口にする。
「副隊長は、貴族なんですよね」
 突然の問いに、さすがにイサークは面食らったようだった。桶から水を掬っていた手を止め、何度か瞬いてラウルを見遣る。
「一応はそうですよ。それが何か?」
「何故貴族なのに、民衆の味方をしようと思ったんですか? 貴族って選民意識が高くて、一般人をゴミみたいに思ってるじゃないですか」
「まぁ、その通りですね」
 常日頃から王宮を見続けているイサークは、肯定して皮肉気に口端を曲げる。
「……ハルバテーレの虐殺というのは知っていますか?」
「聞いたことは。20年くらい前に、他国が攻め入ってきたときのことですよね?」
「ええ。その戦争の中で起きた事件のひとつです」
 ラウルは直接戦争を体験したことはない。というよりも、今生きているハーロウ国民の大多数がそうだろう。20年前に東に位置する国が突如攻め入ったときも、国境周辺の街ハルバテーレだけで決着がついたためだ。2週間ほどの、関わった地域の広さだけで言えば小競り合いと言うべきその戦いが敢えて戦争と称されるのは、その僅かの間にそれでは済まないほどの死傷者が出たためだ。
「その時に、私の親も戦いに参加していたからですよ」
 イサークの言葉は、およそ回答にはなっていない。ラウルが続きを促すように見つめれば、彼は小さく寂しそうに笑ったようだった。
「厳密に言えば、あれは国対国の戦争ではなく、反乱と言うべきものなのです」
「え」
「勿論、歴史の本にはそんなことは載っていません」
 ラウルの知るその戦では、ハルバテーレの民を殺して回ったのは東の国が雇った兵となっている。それを重く見た国王や重鎮達が自ら軍を指揮して、即座に戦いを集結させたというものだ。イサークの言うとおり、誰に聞いてもどの本を読んでも、国民の起こした反乱などということは語られていない。
「……つまり、副隊長のご両親は、反乱する側で参加していたということですか」


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