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 そのうちに、進む道の左側の勾配が強くなっていった。河沿いに作られた堤防が高くなっているのだ。かつてはその上を歩いたこともある。思い、ラウルは馬を下りてその方へと足を向けた。
 上りきり、今度は河をやや下方に見下ろして風を受ける。そして右方、体を反転させ、収穫前の黄金の海を正面に、ラウルは目を細めた。
 ずっと長い間その土地に根を下ろしていた住民が居らずとも、秋の風景にさほど違いはない。時々強く吹く風はまだ暖かく、豊かに、今年もまた重い実が揺れている。
 豊かだ。この国はあまりにも豊かだ。
 まるでそうでなくてはならないという呪いのように。
「――あんた」
 ふと、呼びかける声にラウルは振り向いた。少し離れた場所に座っていた男が、近づきつつ首を傾げている。
「何か用ですか?」
「いや、あんた、どっかで見たことあんだけど……」
「?」
「いや、なんか気になって……、……あ、そうだ」
 そこで、思い出したように男は手を打った。
「あんた、あれだ。俺たちに出て行けっつぅた、やたら怖ぇおっさんの連れだろ」
「特別機動隊第二隊です」
「あー、そんなこと言ってたっけ」
 胡乱気に見遣るラウルに、男はへらりと嗤う。
「村の奴ら、元気でやってんのか?」
「さぁ? 僕も今から行くところですから」
「ふぅん。あんたたちも結局見捨てたんだ」
 どこか愉悦を含んだ口調に、ラウルは眉根を寄せた。
「いいって、判ってる」
「何のことですか?」
「あいつら、莫迦だったようなぁ。へいこら従ってよ。野垂れ死ぬこた判ってんだから、上手くやりゃ良かったのになぁ」
 その言い方に、ラウルはひとつの事件を思い出す。河の西側に住んでいた者と東側の者がひどく揉めることとなった発端だ。西側の一部の若者が村で共有する家畜を勝手に新領主に渡してしまったため、西側出身者が肩身の狭い思いをすることになった一件である。
「……あなたが、村の家畜を持ち出した人ですか」
「おっと、言いだしたのは俺じゃねぇよ。ま、おかげで楽させてもらってっけどな」
「随分といい暮らしのようですね」
 関係者に出会い、気まずくはないのだろうか。ラウルは違和感と嫌悪感をもって男を凝視した。少なくとも自分であれば、相手の反応が怖くて声を掛けることすらも出来はしない。
「まぁな。あれもこれもやんなくていいし、楽だぜ。領主様に言われたことだけやってりゃ、衣食住は保障してもらえるんだ。あれもこれも自分たちで考えて朝から晩まで働いてた頃が莫迦みたいだぜ」
 男は、大きく両手を広げ、暮らしの良さをアピールする。
「やるこたきっちり決められて、その通りに作業するだけだぜ? なんての? さすが貴族様だよな。こうしろああしろって言われるままにしてるだけで、前と同じ収穫じゃねぇか」
「そう、ですか。――村人全員の財産を勝手に自分たちのためだけに与えたのですから、それは、厚遇もしてもらえるでしょうね」
「はん? なに、責めてんの? はっ、莫迦だね。ちょっと気付けば良かったものを、頭回んねぇから莫迦みてるだけだろ」
 ああ、とラウルは思う。
 この男は、自分が心の中で繰り返した言い訳を他人に話し、自分は悪くないのだと訴えたいのだ。
 裏切りを知ったあの時、ラウルは行為そのものへの嫌悪感は感じていたが、個人に対してどうとは思うことはなかった。某か裏切るだけの重要な事情ややむを得ない理由があったのかもしれないと考えていたからである。ラウルたちは村人ではなく、現状を分析し村全体へのことに干渉することはあっても、村人の間だけにある内情に関与することまではできない。
 だが今は、はっきりと怒りを感じた。
「あなたは、彼らが愚かで自分が賢かっただけなのだと、莫迦だったのが悪いと思いたいようですね」
「事実だろ」
「自分のしたことが後ろめたいものだと判ってるものだから、そうして正当化しているだけでしょう? 自分の行動が正しかったのだと主張したいだけなら、小賢しい仲間と褒め合っていてください。僕には、――不愉快です」
 言い切り、ラウルは男に冷えた視線を送った。
「何も考えず、言われたとおりにするだけなら家畜で充分ですね。ああ、あなた、領主に喋る家畜だと思われてるんじゃないですか?」
「っ、……てめぇ!」
 カッ、と男は一気に顔を紅潮させた。そうして震わせた拳を体幹を捻るようにして後ろへと引く。殆ど距離はなく、ラウルが振り向いて対処する暇はない。
 だがそのとき、ごう、とひときわ強い風が吹きぬけた。
「!」
 横からの風を受けて、男は姿勢を崩す。ラウルも同様に一瞬怯みを見せる。だが、次の行動へ移るまでの時間にはかなりの差が生じた。
 懐に入れていた細い短剣を鞘に入れたまま横に振り、ラウルは間近に迫っていた男の肩を強く打つ。
「痛っ」
 一般人相手だ。さすがに手加減はしている。男は肩を押さえ数歩後退したが、倒れるところまではいかなかった。
 屈む彼を見下ろし、ラウルは無言のままに身を翻す。手綱を引き馬を促せば、沈みかけの陽が顔を照らした。
「てめっ……、待て!」
「断る。あなたはそこで、飼い主に媚びを売りながら人生を楽しむといいよ」
 振り向きもせずに言い捨て、ラウルは堤防を後にした。さすがに、男が追ってくる様子はない。
 整備された道へ戻り、馬に乗る。もう少し南下すれば東へと通じる橋があるが、日が沈んでから渡るのは足下が如何にも危険だ。少しゆっくりしすぎたかと思い、ラウルは馬を駆った。
(莫迦、か……)
 夕日と風を受けながらひとり進む道で、ラウルは考える。
 男の存在は、到底受け入れられそうにはない。だが現実、楽に平和に過ごしているのは狡猾に立ち回った男の方で、開拓地の者達は苦労を重ねている。勝ち組、と言えば前者なのだろう。
 だが、何も考えずにただ従い与えられるだけの平穏に、何の意味がある、とラウルは思う。そんな人生なら、人がこうして考える力など必要はない。
 男は考えた。考え、そうして、皆を裏切ってまで考えることを放棄した安楽を選び取った。
(領主が変わり、待遇が変わったら彼はどうするんだろうか)
 おそらくは、反発などしない。安楽という酸に牙を溶かされた彼は、唯々諾々と従うだろう。今度は、切り売りできるものがないのだ。そうしてその時になっても彼は、開拓地に残った者達を莫迦にするのだろうか。
 そうしてその時も、国の命令に従い開拓地へ行った者たちはまだ、理不尽な仕打ちに耐えて過ごすだけでいるのだろうか。
 前者については判らない。だが後者についてはもう少しで回答が得られるはずだ。
(たとえたたき出されても、みせしめに暴力を受けても)
 素直に、反発することもなく従われるよりはいい、とラウルはそう思った。


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