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「……」
「恩恵に慣れた人々は、悪いものから目を逸らしました。逸らしていても、豊かに暮らしていけたのです。ですがそれは、理不尽なことに立ち向かう心を無くすものだったと私は思います」
 指摘に、アルベルトはただただ頷いた。
「理不尽に多くの物を奪われても、豊かな自然はそれらを仕方ないで済ませるほどの恩恵を与えました。貴族が際限なく富を増やし非道な行いをする一方で、経済的に底辺の人々でさえも日に食を欠くということすらなかったのです」
「……ああ」
「いったいどうすれば、自らを律し、困難に立ち向かい、奇跡に頼ることなく力強く生きていく民に変えることができたでしょう? だからこそ、どんなことでも王が導いてくれる、そんな幻想を残さないために、あの人は自ら愚かな王に、非道な貴族の主になろうとしたのだと思います」
「だがその決断の犠牲は、けして少なくはない……」
「そう、ですね」
 エレアノールは肯定し、目を細めてアルベルトを見遣る。
「彼が正しかったとは思いません。最善の方法だったとも思いません。ただ、安寧に慣れて疑わない民衆と己のことしか顧みない周囲の権力者達の間で、限られた時間の中で、それがあの人に出来た精一杯だったのでしょう。……できれば」
 そこで初めて、エレアノールは言葉を詰まらせた。震えるような、息をも止めそうなその間がふたりの間に落ちる。
 そうしてアルベルトは、次に来る言葉を思い、今度こそ、固く――固く目を閉じた。
「もっと、頼って欲しかったと、今はそう思います……」

 *

「これから、どうするんだ?」
 馬を引き、厩舎から従者とともにやって来たパオラが、如何にも不機嫌な――またはそう装っている――アルベルトにむかいそう問うた。
 離宮の上空は三日ぶりの晴れ間を覗かせ、ぬかるんだ道に眩しいほどの陽を落としている。休息も睡眠も、仮の域を超えないものしかとっていないアルベルトには、少々酷なほどの天気だ。
「どう、とは?」
 気のないような様子で、アルベルトはパオラの方を向く。
 パオラはその様子に、呆れたように肩を竦めてみせた。
「離宮の財産を使ってどう再建するんだ、ってことさ」
「知らん」
「知らんって、……君、な」
「俺よりも使い道に通じた者が居るだろう。俺はそいつに、度が過ぎねぇ程度に委ねるだけだ」
 返答に、パオラは何度か瞬いたようだった。
「なんなら、パオラどのでも構わんが」
「いやいや、それはないだろう」
「そうでもない。あなたのことは、ラウルも随分と買っていた」
「――そうか。それは、光栄だな……」
 事情を、既に聞かされているのだろう。アルベルトの言葉に含まれたものを正確に読み取り、パオラは寂しげな笑みを浮かべた。
 僅かな沈黙。そうして、彼女はアルベルトへと手綱を委ねた。
「私でも必要だというなら、いつでも駆けつけよう」
「――ああ」
「せいぜい、頑張ってくれ」
 言い、パオラはにやりと笑う。切り替えが早いと言うよりは、アルベルトを励ましているのだろう。口端を僅かに上に曲げ、アルベルトはそのまま馬に乗った。
「ではな、気をつけ、――おや?」
「なんだ?」
「見ろよ。虹が出ている」
 珍しいものを見るように、パオラは木々の開けた方を指さした。釣られるように見れば、前方に長い影。その先に、確かに美しい光のアーチがかかっていた。
「やぁ、なんだか励ましてもらってるようじゃないか」
「ただの偶然だろう」
「……情緒のない男だな」
 肩を竦め、パオラは口を尖らせる。
「――ああ、うん、だがまぁ、君はそれでいいという気がする」
「は?」
「虹は美しい、だが触ることも近づくことも出来ずに、いつか必ず消える」
 パオラは遠くを見つめながら、更にそれを越えた場所を見るように呟いた。
「そういう儚く美しいものではなく、君は現実に足を下ろした、確かな未来を作ってくれ」
「……」
「それが、彼の願いだろう?」
 言い切り、パオラはアルベルトを見上げた。その期待を寄せた視線にアルベルトは気のなさそうに、だがどこか負けたように、常日頃からの仏頂面を更に歪めて答えを返す。
「――」
 そうしてそれは誓いのように風に乗り、遠い青空へと吸い込まれていった。


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